C044034(T3657)

短刀 銘 伯耆国住見田五郎左衛門尉広賀作 永禄拾二年二月日 附)黒石目地塗鞘合口短刀拵

室町時代末期(永禄十二年/1569)伯耆
刃長25.1cm 反り0.1cm 元幅24.2mm 元重6.0mm

保存刀剣鑑定書

附)黒石目地塗鞘合口短刀拵

 

剣形:平造、庵棟。刃長八寸弐分の頃合な短刀。ほぼ無反り、元身幅尋常に元の重ね厚く均整のとれた剣形(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌練れて棟寄りに柾目を交えて総体に肌立ち、地沸ついて湯走りかかる。
刃紋:焼刃広い大互の目の腰開き、尖り刃や丁子を交えて処々跳び焼きがある皆焼刃。
帽子:乱れ込んで焼刃高く、火炎状に先尖り棟焼き区まで焼き下げる。
茎:生ぶ、目釘孔二個。茎尻の刃側を削いで舟底風となり栗尻に結ぶ。勝手下がりの鑢目に棟小肉つく。表には『伯耆国住見田五郎左右衛門尉広賀(ひろよし)作』の長銘、裏には『永禄拾二年二月日』太の年紀が刻されている。

 広賀は相州綱広の門と伝え、初代を永正・天文(1504~54)、二代を五郎左右衛門尉の天文・永禄(1532~69)頃、三代を九郎兵衛尉の天正(1573~)、四代を道祖尾藤十郎(天正頃)とつづき、以降江戸時代につづいている。
 室町時代中期、廣賀は相模から伯耆へ移住して守護大名山名氏に仕えたという。大永四年五月に隣国出雲の尼子経久の軍勢が伯耆を制圧し山名氏は国外へ退去したことにより、小鴨岩倉城主、小鴨左衛門尉元清の家臣見田兵衛は刀工に転じて伯州廣賀に入門したという。
 五郎左衛門尉広賀は、金屋子明神に参拝にきた相州綱広と師弟関係を結び鎌倉に下向して研鑽を積んで戦国武士の需に応えて優品を手掛けたという。

附)黒石目地塗鞘合口短刀拵(拵拡大写真 /刀装具各部写真
  • 小柄:笹に虎図、赤銅魚子地、高彫、銘:重義(花押)
  • 目貫:牡丹獅子図、銀地容彫
  • 柄:白出鮫
銀無垢二重はばき、白鞘付属

注)広賀家は道祖尾(さいのお)家と見田家に分かれる。道祖尾家は文明頃(1469~)にはじまり江戸期に亘り倉吉鍛冶町に鞴を構えた。見田家は天文頃(1532~)の五郎左右衛門にはじまり、津原に居住したのち倉吉と往還して承応頃(~1654)まで続いている
注)永禄(1558~70)は正親町天皇の即位改元で、永禄三年五月十九日 織田信長、桶狭間の戦いで今川義元を破り、同十三年九月二十六日ひは足利義昭を奉じて上洛している
参考資料:
本間順治、佐藤貫一『日本刀大鑑』古刀篇三、大塚工藝社、昭和四十四年