H21042(S833)

刀 銘 大和大掾藤原正則作 附)黒蝋色一分刻鞘打刀拵

新刀 江戸時代初期 (元和頃/1615~) 越前
刃長 61.5cm 反り 1.0cm 元幅 30.5mm 先幅 21.8mm 元厚 6.8mm

特別保存刀剣鑑定書

附)黒蝋色一分刻鞘打刀拵

剣形:鎬造、庵棟、やや浅めの反り。重ね厚く刃長控えめに鎬地幅に比して平地が広い造り込み。元身幅広く、元先の幅差さまで開かず中峰のびごころ。慶長新刀期に流布した威風堂々たる体躯。(刀身拡大写真
鍛肌:地鉄はよく詰んだ板目鍛えで、煌めく地錵が平地を覆う。板目鍛に呼応した青黒い地景が鮮明にたつ強い地鉄をしている。
刃文:焼刃の高い互の目乱れは規則的に突き上げる尖り刃を交えて艶やかな所謂、『三本杉』。物打ち上部には僅かに棟焼きがある。刃縁に小沸が厚く積もり砂流しかかり、刃中は澄んだ匂充満して互の目の沸足は刃先に向かって放射して頗る明るい。
帽子:乱れこんで中丸となり深く返る。
茎:生ぶ、刃棟双方の区深く舟底形となり剣形に結ぶ。目釘孔一個。勝手下がりの鑢目。棟肉平でここにも勝手下がりの鑢目がある。佩表の鎬地には小振り細鏨の長銘『大和大掾藤原正則作』の九字銘がある。

 上作・良業物の誉れ高き『大和大掾藤原正則』は山城の三条吉則の末裔で丹後国宮津の産で初銘『正法』という。
 慶長年間に徳川家康の子、結城秀康が関ヶ原の戦の軍功により越前北之庄初代藩主になると『兼法』の斡旋で福井城下に鍛冶場を構え、初銘『正法』の『法』を同音異字の『則』と改めて『正則』としたという。銘鑑によると慶長十三、元和二、寛永四、慶安四年紀があり、初代康継とともに越前新刀の開拓者の筆頭である。今の福井県大野城下、大和町は正則の居住地で、その任官名『大和大掾』を採って名付けられた。
 この刀は慶長五年(1600)関ヶ原の合戦を経て寛永十四年(1637)の島原の乱に備えた武士の尚武の気風に満ちた片手打ちに好適な寸法の造り込み。素早い抜刀に長じた体躯は剣術に長じた武士からの特需であろう。身幅広く重ね厚く重厚な肉置きは高位に均整がとれ、二つ三つと列なる尖り刃の所謂、『三本杉』と称された焼刃は抜群の切味を有した戦国武将たち羨望の良業物である。

附)黒蝋色一分刻鞘打刀拵 (打刀拵全体写真・/ 刀装具拡大写真

  • 縁頭:薄図、赤銅石目地、高彫、金色絵、無銘
  • 目貫:松葉に蜘蛛図、赤銅容彫、金色絵
  • 鐔:薄図、鉄地竪丸形、地透、鋤下彫、金銀象嵌、銘 亀眼
  • 柄:白鮫着、金茶細糸常組糸諸撮菱巻

金着二重はばき、白鞘付属

参考文献:本間順治・佐藤貫一『日本刀大鑑・新刀篇二』大塚工藝社、昭和四十一年