A37110(S2218)

刀 銘 靖延 昭和十六年五月吉日

現代刀 昭和初期(昭和十六年/1941) 東京都
刃長 66.9cm 反り 1.8cm 元幅 28.8mm 先幅 19.0mm 元重 7.2mm

保存刀剣鑑定書

剣形:鎬造り、庵の棟。重ね厚く、二尺二寸の定寸法に六分のやや深い腰反り、元先の幅差頃合について猪首中峰に結ぶ。(刀身拡大写真
鍛肌:小板目肌よく詰んで鎬柾目。
刃紋:中直刃小沸出来の焼刃は頻りと鼠足入り、節ごころとなる所がある。刃中匂い充満して明るい。
帽子:直ぐに大丸に返る。
茎:生ぶ。目釘孔一個。茎長さ19.5cm。茎に頃合の反りがついて入山形に結ぶ。鑢目は切。棟肉平でここには大筋違の鑢目がある。目釘孔上方平地寄りに太刀銘で『靖延』の二字銘。裏の鎬地には『昭和十六年五月吉日』の制作年紀がある。

 村上靖延は名を円策、明治四十年四月二十四日、山形生まれ。昭和八年十二月十五日(1933)に九段の靖国神社内に設けられた『日本刀鍛練会』に同郷の池田靖光の先手として入会。師『靖光』定年退会をもって同十四年一月十一日(1939)『板垣征四郎』陸軍大臣より刀匠銘『靖延』を授名した。
 同年二月にに靖国神社奉納刀、同三月には後鳥羽皇七百祭奉納刀造刀、同十九年十二月二十一日(1944)には第二回陸軍軍刀展覧会会長賞の栄誉に輝いた。同二十年八月十五日(1945)終戦退会。
  表題の『靖延』精鍛刀は、太平洋戦争開戦直前に『靖国タタラ』から産出された高純度の真砂砂鉄を用いて操業回数・鋼製産量ともに頂点に達した時期の作刀。師伝の刃縁に叢のない直刃に小足・鼠足の入った刃文を得意とした作風を明示する。
  昭和八年(1933)は近代の刀剣史上で記念すべき年※。二つの刀剣鍛錬所が開設された。昭和八年七月五日、衆議院議員の栗原彦三郎(刀匠銘:昭秀)は自邸(旧勝海舟亭)に日本刀鍛錬伝習所を開設、また(財)日本刀鍛錬会は六月二十五日に九段の靖国神社境内に鍛錬所を完成させた。以降十二年間の同会の解散まで8100口の日本刀が誕生し『靖国刀』と呼称されている。
 『靖国刀』は鎌倉時代の作刀、とりわけ光忠、長光、景光などの備前長船物、を範として推奨された。刃長は二尺二寸、反りは五・六分とされる。茎の鑢目は切で太刀銘で目釘孔上方に『靖』を冠する二字が刻されて裏には制作年紀が切り付けられた。
 創設には後に主事となった海軍大佐:倉田七郎らが尽力し、草創期の主任刀匠として宮口靖広、梶山靖徳、池田靖光がいる。鍛錬会では、主として通常の軍刀の制作や陸海軍大学校の成績優秀な卒業生に贈られた御下賜刀(所謂恩賜の軍刀)などの制作も行っている。現在でも鍛錬所の建物は靖国神社境内に残っているが、内部は改装されて茶室になっている。
 日本刀の主たる素材である玉鋼や銑鉄の製産は大正末年をもって途絶していたものを昭和八年から同十九年の間に島根県仁多郡奥出雲町の『靖国たたら』として復興し高品質の玉鋼の供給を可能とした。公益財団法人日本美術刀剣保存協会はその伝統を再興すべく「靖国たたら」跡地を昭和51年6月24日(1976)「日刀保たたら」として復元させて今日の鍛刀を支えている。

銀鍍金太刀はばき、白鞘付属

※大正七年(1918)月山貞一、84歳、同九年の羽山円真、75歳、同十五年宮本包則、97歳ら名匠の相次ぐ没後で新々刀期の掉尾を迎えることになった。昭和四年、伊勢神宮式年遷宮にあたって月山貞勝が太刀五十八口、鉾四十三柄を一手に鍛えたのは他に名だたる刀匠がいなかったからである。
参考文献:トム岸田『靖国刀ー伝統と美の極致』(株)雄山閣、平成十五年十一月十五日