T61078(S2657)

刀 無銘 兼延 附)刷毛目潤塗鞘肥後打刀拵

古刀 南北朝時代(応安頃/1368~)美濃
刃長63.6cm 反り1.5cm 元幅28.8mm 先幅20.8mm 元厚6.9mm

特別保存刀剣鑑定書

附)刷毛目潤塗鞘肥後打刀拵

保存刀装具(鐔)

剣形:鎬造り、庵棟。磨上げながらも腰元でやや深い反りが付いて重ね厚く平肉控えめ、元先の身幅の差がさまで開かず物打ちの身幅張って中峰延びる雄渾な姿。表裏には樋先の下がった掻き通し片チリの棒樋がある。(刀身拡大写真
鍛肌:地肌は板目肌刃寄り流れて総体肌たつ。地沸を厚く敷いて板目状の地景が入る。
刃紋:焼刃の高い沸本位の湾れを基調に互の目乱れに尖り刃を交える。下半やや小ずんだ互の目は上半から物打ちにいくにしたがって焼刃さらに高く、刃縁にはやや粗めの沸がさらに厚く積もり匂さらに深くつき、互の目の沸足は刃先に太く放射して刃縁には金筋・稲妻かかり頗る明るく冴える。
中心:大磨上無銘。鑢目は切、茎尻切。目釘孔二個。棟に小肉つく。茎にも僅かに反りがつく。
帽子:焼き強く乱れ込んで先中丸となる。

 南北朝時代の直江志津一門の個銘『兼延』と極められた優刀。
 鎌倉時代末期、美濃国志津の地に、正宗十哲の一人に数えられる兼氏が来住して志津一門を創始した。次世代南北朝期になると子や門人達の兼友、兼俊、兼延らが美濃国直江村(現在の
養老郡養老町直江)の地に拠点を移して鍛刀に励んだ。彼ら一門を総括して『直江志津』と呼称している。
 銘鑑によると『兼延』は兼氏の次男で兼俊の弟。初代を応安頃(1358~)、二代を明徳頃(1390~)としている。南北両朝の戦乱は全国に広がり需要の増大に応じて同門の鍛冶らは豪壮で長大な太刀姿の、相州伝に美濃伝法を加味して独特の地刃を完成させ多くの優作を創出している。同派の刀は僅かながら有銘品を慧眼するも、多くは大磨上げ無銘の極め物である。
 室町時代の直江志津一門は南北朝統一による需要の低迷による衰退や度重なる河川の氾濫により直江の地を離れて関や赤坂の地に移住。明応頃(1492~)の小山に住した兼延はのちに尾張志賀(現名古屋市北区金城町)に移住し『志賀関』と呼称されている。

 本作は磨上げながらも、腰元でやや深い反りがついて物打ちの身幅もさまに開かずに中峰延び、樋先の下がった棒樋を茎に掻通す姿は南北朝盛期の威風堂々たる往時の体躯を彷彿させる。板目鍛えの地鉄は地沸を微塵に厚く敷いて、深淵より湧き出す地景が縦横無尽に織りなす強靭な鍛肌。慧眼する直江志津の焼刃よりさらに背の高い刃文は互の目に処々尖り刃を交じえ、刃縁には沸厚く微塵について金筋・稲妻かかり、匂口が殊更明るく冴え覇気に富んでいる。南北朝の相州本伝を明示する優品である。

附)刷毛目潤塗鞘肥後打刀拵 (拵全体写真
/刀装具各部拡大写真
  • 縁頭:枯木図、鉄磨地、金象眼、無銘
  • 目貫:龍図、素銅地、容彫、金色絵
  • 鐔:花弁雁金透図、鉄地、丸形、地透、無銘 西垣保存刀装具
  • 馬針:鉄地、雨龍図、銀象嵌、無銘
  • 大小柄:真鍮磨地、無銘、小刀 銘 一成造(注)
  • 柄:金泥塗鮫着、茶細糸諸捻菱巻
  • 鞘:刷毛目潤塗、鉄折金、金象眼、桜花図鉄鐺、金象眼、無銘 (鞘には処々漆の剥がれ・欠損があります)
下貝山銅渡金青海波文上貝銀地波濤文・二重はばき、白鞘付属。
参考資料:本間薫山・石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年
(注):成木一成(本名一彦)氏は、昭和6年9月10日(1931)、岐阜県中津川市に生まれた。同35年(1960)頃、鐔の研究・試作をはじめ高橋介州氏に師事。同氏は長年にわたり、尾張・赤坂・金山鐔などの鉄鐔の復元を試み、自ら材料の砂鉄を全国各地から集め、自家製たたら製鉄によってその古雅な地鉄の再現に努めた。鉄地の表面処理の焼手腐らかし技法の復活にも挑戦し独自の鉄鐔の世界を展開している。胞山県立自然公園近くに居住し、号を胞山という。昭和56年7月16日(1831)、中津川市の無形文化財保持者に認定、同61年(1986)に黄綬褒章を受章。平成21年(2009)、公益財団法人日本美術刀剣保存協会より無鑑査に認定された名工