A73037(S2059)

刀 銘 前伯州信高入道 寛文三年二月日 附)潤菜種塗鞘打刀拵

新刀 江戸時代前期(寛文三年・1663) 尾張
刃長 74.9cm 反り 1.6cm 元幅 33.8mm 先幅 24.3mm 元厚 7.5mm

特別保存刀剣鑑定書

附) 潤菜種塗鞘打刀拵

保存刀装具鑑定書(鐔)


剣形:鎬造り、庵棟。ことのほか長寸に元身幅極めて広く、重ね厚つき重厚な肉置き。反り深めに元先の幅差がさまで開かず、物打ちあたりの身幅も張って中峰のびる威風堂々とした体躯。(刀身拡大写真) 鍛肌:小板目肌に板目・杢目を交えて強く錬れ、地沸微塵に厚くついて地景縦横に織りなして肌立ち鉄色冴える。 刃紋:刃区より浅く湾れて焼き出して大互の目に複式互の目を焼き、焼刃の高い足長丁子を連ねて丁子足が刃先に放射する。刃中清涼な匂い満ちて丁子足を遮る砂流しかかり匂口明るい。 帽子:横手下を互の目で焼き切先帽子は直ぐ調となり中丸に返る。 茎:生ぶ。茎は急角度の刃上がり栗尻。鑢目は角度深い大筋違に化粧鑢。棟肉豊かに付いて此所にも大筋違の鑢目がある。目釘孔一個。指表やや平地寄りに『前伯州信高入道』の長銘。指裏には『寛文三年二月日』の制作年紀がある。  尾張徳川家は信長、秀吉、家康、加藤清正、福島正則らの戦国時代の英傑達を輩出した要所であり、尾張藩工の信高は尚武の尾張藩士の需に応じた堅強な造り込みを専らとした。
 初代、河村左衛門信高は三阿弥派に属し兼高の子。永禄四年(1561)に美濃国上有知に生まれた。氏房とは同姓の一族である。織田信長から『信』の諱を下賜されたと云われている。歴代清洲城主の愛顧を受け、慶長十五年(1610)名古屋築城と同時に名古屋鍛冶町(名古屋市中区丸ノ内三丁目・テレビ塔付近)に移住した。尾張徳川家の手厚い庇護を受け幕末までその名跡は続く。

 二代信高は初代慶遊信高の子、慶長八年(1603)尾張清洲関鍛冶町に生まれた。河村伯耆という。同十五年名古屋城築城とともに名古屋関鍛冶町に移住。寛永十年八月二十九日三十一歳で伯耆守を受領している。尾張国初代藩主である徳川義直の御用鍛冶を命ぜられて百石を拝領。寛文二年六十歳で隠居し晩年は『閑遊入道』と号した。寛文から延宝年間は刀剣の需要が多く、特に武芸の盛んな尾張国では頑丈な造形のものが求められ、同藩の剣術指南役である柳生連也斉厳包の佩刀を鍛えた信高の刀は質実剛健を旨としながらもその豪壮な作りこみと大業物としての名声を世に知らしめた。元禄二年(1689)九月二十七日没、享年八十七の長命であった。

 表題の尚武誉れ高き打刀は寛文三年の裏年紀から二代信高円熟六十一才の作刀。隠居後も精力的に鍛刀に励んで実子の三代・河村三之丞信高との合作に優れた作刀を観ることができる。本作は殊の外寸がのび、元身幅極めて広く両区深く、先身幅もたっぷりと張って重ね厚い豪傑な姿は尾張刀工の優秀ぶりを示す優品で稀有な制作年紀も貴重である。はばきを除いた刀身は950㌘もあり、原姿を保持する健全無垢たる体躯は殊の外賞揚されよう。

附)潤菜種塗鞘打刀拵 (打刀拵全体写真 / 刀装具各部写真
時代山銅地はばき、白鞘付属
※三代河村三之丞信高は寛永九年に生まれ、初銘を「信照」。寛文五年三月五日三十四歳のときに伯耆守を受領して信高を名乗った。同年五月に尾張二代藩主徳川光友の命により尾張徳川家のお抱え鍛冶に任じられ扶持十人分を受けた。宝永四年八月二十日享年七十六歳没。父である閑遊入道信高と協力して鍛刀に励んでいる。歴代信高中、この二代・三代の作刀がもっとも出来が優れているといわれている。
※伯耆守藤原信高の銘については二代・三代の銘振り・茎仕立てが近似していることから代別が困難ではあるものの、詳細に観ると銘の特徴として『守』の第三画は中央に向い角度付いて大きく鏨を運ぶこと、さらには『藤』の第三画は『月』の肩に向かい斜めとなり、『信』の最終画はやや右下方に鏨を跳ねるのは三代の特徴である。二代・三代には短刀の作例はないという。
参考文献:
『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和五十九年三月三十一日
『刀剣美術』第357号、日本美術刀剣保存協会、昭和61年10月
参考資料:脇指 銘 『前伯州信高入道 生年六十六才作之