A898(T5006)

短刀 銘 延次 附)金泥塗鞘片手巻柄右手差合口短刀拵

古刀 室町時代後期(永正頃/1504~)尾張
刃長 24.2cm 筍反り 元幅 25.5mm 元厚 5.5mm

特別保存刀剣鑑定書
『日本刀随感 古刀篇』所載

附)金泥塗鞘片手巻柄右手差合口短刀拵

 

剣形:平造り、庵棟。身幅・重ね共に尋常。フクラの枯れたやや内反りごころ、所謂『筍反り』の造り込み。(刀身拡大写真
鍛肌:青黒く沈んだ地肌は大板目流れて杢目顕著に肌たち、地沸を厚く敷いて太い地景が湧き出す強靭な鍛肌。
刃紋:沸本位の互の目・湾れ刃の腰元、中頃は匂口締まり上半は刃縁に小沸さらによくつく。処々跳び焼きがあり棟焼かかり『皆焼』となる。刃中の焼頭には地景に呼応した金筋・砂流し頻りとかかり明るく冴える。
中心:生ぶ。鑢目は檜垣。刃上がり栗尻張る。目釘孔二個。棟肉ついて逆鷹の羽の鑢目。佩表第一目釘孔の上方、棟寄りには『延次』の古雅な二字銘がある。
帽子:焼刃強く乱れこんで先中丸、地蔵風となり返り深く乱れて棟焼きに繋がる。

 室町期の直江志津一門は、南北朝統一による需要の低迷による衰退や、度重なる河川の氾濫により直江の地を離れて関や赤坂の地に移住している。
 小山(美濃加茂市下米田町小山)に住した明応頃(1492~)の『兼延』は『兼存』の子と伝えられ、のち尾張志賀(現名古屋市北区金城町)に移住、『志賀関』と呼称され尾張鍛冶の礎を築いている。同派には康正頃(1455~)の『国次』、明応頃(1492~)の『兼延』、永正頃(1504~)の『延次』の三工が挙げられている。同派は茎尻刃側を削いで絞る手癖があり、鑢目は短刀が檜垣、鎬造りは鷹の羽を切るという。二字銘は第一目釘生孔の棟寄りから切り付け、短刀は目釘孔上方の棟寄りに鏨を運ぶ。
 本作は切先が筍状に伏せり僅かに内反りとなり、フクラ枯れて刺突を念頭においた戦国時代の鎧通し。板目肌立ち流れ大杢目を交えて肌目顕著に地沸厚く敷いて太い地景が深淵より湧き出す強靭な鍛肌。互の目・尖り刃大乱れ焼刃の焼頭および跳び焼きの刃中には沸が厚く積もり、地景に呼応した金筋・砂流しが頻りと絡んで明るく冴える。刺突に備えての棟焼きを配して皆焼となる強靱な焼刃の構成は、実利を重視したもので地刃ともに冴えた優品として称揚される。
『日本刀随感 古刀篇』所載品 附)金泥塗鞘片手巻柄右手差合口短刀拵
右手差の合口拵は縁頭、鯉口、栗形、返角は角製で目貫は入れていない。二ノ切白鮫着せの立鼓柄に黒漆革で片手巻き。この右手差拵の大きな特徴は、右手咄嗟の刺突を念頭に右手裏に配された返角と鯉口間を削ぎ落して右腰側の帯に鞘を巻きつけて密着させ、右手表の栗形は鞘口に指一本分と接近して右手ひと握りで瞬時の抜刀を可能にしたという。この右手指拵の起源は柳生の忍びが懐剣として用いたとも云われている。

金着一重はばき、白鞘入り。
参考文献:
片岡銀作『日本刀随感 古刀篇』昭和五十七年
本間薫山・石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年
本間順治・佐藤貫一『日本刀大鑑・古刀篇三』大塚工芸社、昭和四十四年
鈴木卓夫・杉浦良幸『室町期 美濃刀工の研究』株式会社里文出版、平成十八年