S54152(T5701)

短刀 銘 濃州関氏房 附)金梨子地塗菊紋桐唐草高蒔絵鞘合口拵

古刀 室町時代末期(元亀頃/1570~) 美濃・尾張
刃長29.0cm 反り0.2cm 元幅27.0mm 元重4.7mm

特別保存刀剣鑑定書

附)金梨子地塗菊紋桐唐草高蒔絵鞘合口拵

 

剣形:片平菖蒲造、九寸六分と寸のびて元身幅広くふくらつく。庵の棟高く、裏菖蒲造の鎬筋は凛として高く棟に向かって肉を削いだ鋭利な造り込み。(刀身拡大写真) 鍛肌:鉄色青黒く冴えて板目肌が流れ肌目たち地沸ついて板目に沿って太い地景が表出する。 刃紋:浅く焼きだして家伝の互の目を焼いて尖り刃、箱刃を交え、刃中に匂が充満して匂口が明るく冴える。ふくら上部は飛び焼き、二重刃を交えて乱れの谷には金筋・砂流しかかり相州伝を加味した覇気ある焼刃。 帽子:湾れ込んで表は先小丸となり掃きかける。裏は中丸となり返り深く焼き下げて棟で留まる。 中心:生ぶ。茎尻がやや細くなり栗尻。棟肉平となる。大筋違の鑢目。茎孔壱個。目釘孔下、平地中央には『濃州関氏房』の長銘がある。  若狭守氏房は天文三年(1534)、関七流中の善定家である清左衛門兼房の三男として岐阜に生まれた。姓は河村、名を京三郎と称し、初銘を「兼房」という。弘治二年(1556)、長兄の岩見守国房より善定家の惣領を譲られて嫡子となり名を清左衛門と改め美濃国関に移住している。駿河・三河の領主今川氏真に招かれて府中(現在の静岡)で鍛刀に励み氏真より「氏」を賜り「兼房」から「氏房」へと改銘したという。永禄十三年(1570)四月十九日三十七歳の時に織田信長の斡旋により「清左衛門少尉」に任ぜられ、三日後の二十二日には正親町天皇より「若狭守」を受領している。  岐阜・関の地で精力的に鍛刀。天正五年(1577)に織田信長の安土城下へ移住して駐鎚して織田家中の刀槍を鍛えた。同十年(1582)六月二十一日、本能寺の変で信長自害の後は岐阜に帰郷して信長三男の織田信孝の扶持をうけ清洲に移住。同十二年(1584)、尾張国清洲城下で蟹江城主、佐久間正勝の扶持を受けて鍛刀に励んだ。  同十八年(1590)五月十一日没、享年五十七。名古屋大須門前町の東蓮寺(現在は昭和区八事に移転)に睡る、法名『前若州大守良屋宗善居士』。  熱田神宮には「氏房」に改銘する前の代表作で愛知県の指定文化財、太刀 銘 「河村京三郎 濃州関住兼房作」、刀身に切付銘で「永禄十一年二月吉日 奉寄進熱田太神宮 兼房作」がある。また、織田信長の安土城築城後に駐鎚した脇指 銘 「若狭守氏房 江州安土住人」がある。  表題の短刀は元亀から天正初年頃の作。身幅の割に寸延びて反りは極めて僅かに抑えられ、表平造に裏を菖蒲造とした特別な需による凛とした姿。地鉄は板目肌、地景太く働き、肌模様は明瞭に立ち現れて地沸が厚く付いて白けた関映りが観察される。 特異な剣形は「尚武」と同音の「菖蒲」が武将の好尚に乗り鍛刀されたのであろうか、表の平造は優れた斬れ味を念頭とし、刺突と刃抜けを期して裏は菖蒲造に造り込まれている。戦国武将が大刀の添差しとして腰に帯びたものであろう、戦国時代の緊迫感を今に伝える。

附)金梨子地塗菊紋桐唐草高蒔絵鞘合口拵 : (拵全体写真 )(刀装具拡大写真
  • 笠目貫:菊紋桐紋散図、赤銅容彫、魚子地、金色絵
  • 小柄:桐紋唐草図、赤銅魚子地、高彫金色絵、無銘
  • 柄 白出鮫着
金着せはばき、白鞘付属

参考文献:『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和59年3月31日