A78470(S2217)

刀 銘 靖廣 昭和九年三月吉日 附)旧大日本帝国陸軍九八式軍刀拵

現代刀 昭和初期(昭和九年/1934) 東京都
刃長 66.6cm 反り 1.8cm 元幅 28.5mm 先幅 16.6mm 元重 7.6mm

保存刀剣鑑定書

附)旧大日本帝国陸軍九八式軍刀拵

剣形:鎬造り、庵の棟。二尺二寸の定寸法に六分のやや深い反り、元先の幅差ついて猪首中峰に結ぶ。(刀身拡大写真
鍛肌:小板目肌よく詰んで鎬柾目。
刃紋:小沸出来の焼刃は互の目・片落ち互の目を交える。刃縁には小沸がついて互の目足が刃先に向かい放射し刃中匂い充満。地刃ともに明るく冴える。
帽子:浅く湾れで小丸に返る。
茎:生ぶ。目釘孔一個。茎長さ17.4cmで茎にも頃合の反りがついて栗尻に結ぶ。鑢目は切。棟肉ついてここには大筋違の鑢目がある。目釘孔上方平地に太刀銘で『靖廣』の二字銘。裏の鎬地寄りには『昭和九年三月吉日』の制作年紀がある。

 宮口靖廣は名を宮口繁、明治三十年四月十一日静岡生まれ、宮口繁寿の孫。東京都小石川住、父の宮口正寿と共に笠間繁継の養子となり大正五年八月より『一貫齋』を襲名。はじめ『寿廣』、『宮口一貫齋寿廣』などの銘を切る。
 昭和七年、閑院宮春仁王殿下の御台臨御の栄誉に授かり、昭和八年七月八日(1933)に九段の靖国神社内に設けられた『日本刀鍛練会』の主任刀匠として入会。同日『荒木貞夫』陸軍大臣より刀匠銘『靖廣』を授名した。
 同年八月に靖国神社奉納刀、翌九年一月二十九日には靖国タタラ新玉鋼を用いて昭和天皇の陸軍用軍刀を造刀の栄誉に輝く。
 昭和十一年十二月二十六日に『大倉鍛練道場』に主任刀匠として移籍し、洋鉄を用いて造刀したものには『国護(くにもり)』と刻している。
 同十四年後鳥羽皇七百祭奉納刀制作。戦後は『寿廣』銘を復活させて同二十八年(1953)伊勢神宮式年遷宮御料太刀を奉納。同二十九年美術刀剣制作の認可を受け奈良春日神社御神宝鉾を制作奉納した。
 昭和三十一年三月二十一日、五十九才歿。その技量は四代目の宮口一貫齋恒寿に継承された。
 表題の『靖廣』精鍛刀は、『靖国タタラ』創業初期、高純度の真砂砂鉄を用いて操業回数・鋼製産量共にまだ少量であった時期の入念作。『日本刀鍛練会』初期の備前伝、とりわけ『景光』あたりを念頭に於いた稀有な作刀。
  昭和八年(1933)は近代の刀剣史上で記念すべき年※。二つの刀剣鍛錬所が開設された。昭和八年七月五日、衆議院議員の栗原彦三郎(刀匠銘:昭秀)は自邸(旧勝海舟亭)に日本刀鍛錬伝習所を開設、また(財)日本刀鍛錬会は六月二十五日に九段の靖国神社境内に鍛錬所を完成させた。以降十二年間の同会の解散まで8100口の日本刀が誕生し『靖国刀』と呼称されている。
 『靖国刀』は鎌倉時代の作刀、とりわけ光忠、長光、景光などの備前長船物、を範として推奨された。刃長は二尺二寸、反りは五・六分とされる。茎の鑢目は切で太刀銘で目釘孔上方に『靖』を冠する二字が刻されて裏には制作年紀が切り付けられた。
 創設には後に主事となった海軍大佐:倉田七郎らが尽力し、草創期の主任刀匠として宮口靖広、梶山靖徳、池田靖光がいる。鍛錬会では、主として通常の軍刀の制作や陸海軍大学校の成績優秀な卒業生に贈られた御下賜刀(所謂恩賜の軍刀)などの制作を行っている。現在でも鍛錬所の建物は靖国神社境内に残っているが、内部は改装されて茶室になっている。
 日本刀の主たる素材である玉鋼や銑鉄の製産は大正末年をもって途絶していたものを昭和八年から同十九年の間に島根県仁多郡奥出雲町の『靖国たたら』として復興し高品質の玉鋼の供給を可能とした。公益財団法人日本美術刀剣保存協会はその伝統を再興すべく「靖国たたら」跡地を昭和51年6月24日「日刀保たたら」として復元させて今日の鍛刀を支えている。

九八式旧陸軍制式軍装拵付帯 (拵全体写真 / 刀装具各部写真)。白鞘付属

※大正七年(1918)月山貞一、84歳、同九年の羽山円真、75歳、同十五年宮本包則、97歳ら名匠の相次ぐ没後で新々刀期の掉尾を迎えることになった。昭和四年、伊勢神宮式年遷宮にあたって月山貞勝が太刀五十八口、鉾四十三柄を一手に鍛えたのは他に名だたる刀匠がいなかったからである。
参考文献:トム岸田『靖国刀ー伝統と美の極致』(株)雄山閣、平成十五年十一月十五日