A77063(S8915)

刀 銘 上野守藤原国常 附)黒色二分腰刻鞘打刀拵

新刀 江戸時代前期(寛永頃/1624~) 美濃・尾張
刃長 71.3cm 反り 1.9cm 元幅 29.5mm 先幅 21.5mm 元重 6.5mm

附)黒色二分腰刻鞘打刀拵

特別保存刀剣鑑定書
保存刀装具鑑定書(鐔)

剣形:鎬造り、庵の棟が高い。二尺三寸五分強とやや寸が延びる。鎬筋高く棟に向かって削いだ肉置きにやや深い反りがつき元先の幅差が頃合いについて刃側が張り大峰に結ぶ体躯。所詮『寛永新刀』と称される豪壮な姿。(刀身拡大写真) 鍛肌:総体に小板目肌よくつんだ強靭な地鉄には地沸がつき地景はいる。鎬地は柾目顕著。 刃紋:沸出来の焼刃は湾れに互の目・尖り刃・箱刃や矢筈刃を交える。刃縁にはやや粗めの沸がついて地には飛焼き・湯走り・二重刃を交えて賑やか。刃中は砂流し・金筋よく入り沸の闊達な働きがある。地刃ともに頗る明るく冴える。 帽子:大峰の焼刃は激しく火炎風に乱れ込む。 茎:生ぶ。目釘孔一個。茎にも頃合の反りがついて栗尻張る。鑢目は鷹の羽。棟肉平でここには切の鑢目がある。佩裏の大きく穿かれた目釘孔下方の鎬筋上には『常』の最終画が長く刻される独特の長銘『上野守藤原国常』がある。  美濃・尾張・三河一帯は信長が弘治元年(1555)庶兄の織田信広を倒して以来、桶狭間の戦、三河一向一揆、美濃齋藤氏駆逐、更には長篠合戦、小牧長久手の戦・関ヶ原合戦など重要な戦場であり大きな武器需要があった。それらの増大する需要に応じたのは古刀期からの関を中心とする美濃鍛冶と駿河の島田鍛冶であった。桃山期以降新時代を迎えると多くの美濃鍛冶らは隣国の尾張や仙台・和歌山・広島・佐賀などの城下町に鍛刀場を移転して政治・文化・思想の大転換期を迎えた。  尾張刀工の相模守政常は文禄四年に福島正則が清洲城主になるに随行し、慶長十五年に名古屋城開城に伴う清洲越しに際して徳川義直に随い名古屋に移住して鞴を構えた。その作域は関伝を踏まえながらも、他伝法とりわけ相州・大和伝を積極的に採り入れて美的に昇華した桃山文化を作風に採り入れるようになる。所謂、古刀から新刀への移行期であり、中世から近世への文化・社会変革期でもあった。  表題の『上野守藤原国常』は美濃国納土の産(現在の関市千年町)、初代『相模守政常』の次男として生まれた(注1/2)。名を『作之進』という。関千手院奈良太郎兼常の一族ではじめ岐阜城下で作刀し政常と共に名古屋城下の富田町(現在の本町五丁目・御幸本町桜通り角)に移住したという。寛永から万治頃(1624~60)の作刀がある。実兄の二代『相模守政常』が早世であった為、父の政常入道と共に義兄の三代・美濃守政常を補佐したと考えられる。
 本作は元先の幅差さまに開かずに反りがやや深くついて大峰に結ぶ勇壮な姿。庵棟、鎬筋ともに高く茎に鷹の羽鑢をかけ、互の目・尖り刃・箱刃や矢筈乱れを焼いて美濃関本伝を踏襲していながらも沸本位の大和色を濃厚に顕した作風は、刀剣史上に於ける新刀鍛冶として古刀とは明らかに一線を画する創意が認められ、尾張新刀の黎明を告げる優品である。

附)黒色塗二分腰刻鞘打刀拵拵全体写真各部拡大写真
  • 縁頭:桐紋散図 赤銅魚子地 高彫 金色絵 無銘
  • 目貫:二匹獅子図 赤銅容彫 金色絵
  • 鐔:輪違桐紋透図 木瓜形 地透 肉彫 無銘 正阿弥(保存刀装具)
  • 柄:白鮫着鉄納戸色片捻菱巻
山銅はばき、白鞘付属

注(1)政常の出自についての異説は『尾張人物応補遺』で『上野守藤原国常の次男で兼常の門人』と記している。
注(2)二代国常ははじめ上野大掾を受領、後に岐阜城下に転住し上野守に転じた。

参考文献:岩田與『尾張刀工譜』名古屋市教育委員会、昭和五十九年