M11254(S8879)

刀 銘 肥前国河内大掾藤原正廣 附)黒蝋墨高蒔絵鞘打刀拵

新刀 江戸時代前期(万治頃・1658~)肥前
刃長 70.6cm 反り 1.6cm 元幅 30.5mm 先幅 21.5mm 元厚 6.6mm

特別保存刀剣鑑定書

附)黒蝋墨高蒔絵鞘打刀拵

剣形:鎬造り、庵棟。身幅やや広めに重ね充分。元先の幅差がさまで開かず、物打ちあたりの身幅も張って中峰のびる。加えて中間反りが深くついて太刀を想わせる洗練された姿をしている。(刀身拡大写真) 鍛肌:小板目肌が精緻によく詰み、地沸微塵に厚くついて地景細やかによく入り、鉄色冴える所謂小糠肌となる。 刃紋:丁子に互の目丁子、互の目にのたれなど交えて足太く長く入る。腰元辺りの焼刃やや低く匂い口深く沸よくつき、乱れの谷に沸が凝り総体に飛び焼き交えて金筋・砂流しかかり匂い口明るい。 帽子:横手を互の目で焼きその上は直ぐ調子となり先掃きかけて中丸に長く返る。 茎:生ぶ。茎尻は急角度の入山形。鑢目は角度深い大筋違、棟に小肉付く。鍵形の目釘孔一個(金象眼埋)。指裏の棟寄りにやや大振りの長銘『肥前國河内大掾藤原正廣』がある。  『橋本正廣家来歴書』に拠ると『正廣』は『吉信』の長子で初代忠吉(武蔵大掾忠廣)の孫、慶長十二年(1607)の生まれ。初代忠吉には嫡子がいなかったため宗家の後継者として嘱望されていたが、晩年に妾腹の男子・平作(後の二代忠廣)が誕生したことにより、忠吉の婿養子の父『吉信』は寛永年間に別家『正廣家』を創始したのが始まりであった。次弟の『行廣』とともに肥前刀の名声を世に知らしめた名匠であった。  『正廣』は初銘『正永』を名乗り実父『吉信』の跡目を継ぎ、その業なって元和九年(1622)弱冠十七歳で佐賀藩主の鍋島勝茂の御前で作刀する栄誉に輝いた。端整な体躯に覇気ある冴えた乱刃の名品を手掛けて藩主の寵愛を受け、寛永二年十一月十九日(1625)に鍋島家の留鍛冶として召し抱えられた。  父『吉信』の逝去後に家督を継ぎ寛永十四年(1637)六月十一日付で、宗家二代『忠廣』と同日に鍋島勝茂公より佐賀城下長瀬町に家禄二十石および屋敷を拝領して『正廣』の刀匠銘を襲名し、寛永十八年七月十九日三十五歳時、二代『忠廣』が『近江大掾』を受領した三日後に『河内大掾』を任官している。  彼は傍肥前中もっとも技量優れ、初代忠吉(武蔵大掾忠廣)歿後は二代『忠廣』を助けて宗家に尽くし良き協力者として活躍したという。制作年紀を刻した作品は少ないものの寛永~寛文にかけての年紀がある。寛文五年二月五日行年五十九歳歿。  この刀はその銘振りから受領後年壮年期の作刀。身幅重ねともに充分保持して五分に美しく反り中峰に結ばれた洗練された太刀姿。小板目鍛えの地鉄は杢目状の地景が入り晴れやかな地沸が地底から湧いて所謂小糠肌を呈して潤う。新雪のごとく細やかな沸が刃縁に厚く積もり焼頭には沸が凝り『虻の目』状の葉が浮かぶ。互の目の谷から刃先に向かい太い沸足放射し、稲妻のような太い金線が足を遮り、深く匂いが充満する刃中には細やかな砂流しかかり自由闊達で覇気溢れる。鍋島勝茂の寵愛を受けた初代『河内大掾正廣』の白眉である。

附)黒蝋墨高蒔絵鞘打刀拵 (打刀拵全体写真・ / 刀装具各部写真
  • 縁頭:天女図、鉄地、鋤下彫、金象眼、金象嵌銘花押(鉄元堂)
  • 目貫:獅子図、金地、容彫
  • 鐔:陰陽三角定規図、小透、鉄地、撫角形、打返耳、金平象嵌、赤銅内覆輪、無銘
  • 鞘:黒蝋色塗、萩に勝虫図墨高蒔絵
  • 柄:白鮫着納戸色常組糸諸撮巻
金着二重はばき、白鞘付属

※河内大掾受領直後の『藤』の右半分旁の横画がひとつおおい
※宗家忠吉家の鑢目は『切』であるのに対して正廣家は『大筋違』
※初代正廣の『廣』は正字を刻しているが、二代および四代正廣の『廣』の画数は横棒の画数がひつつおおい俗字である

参考資料:
片岡銀作『肥前刀思考』昭和四十九年
横山学『肥前刀備忘録』平成十八年