剣形:鎬造り、庵棟。身幅尋常に重ね厚くやや浅めの反りがつく。元先の身幅の差がさまで開かず中峰延びた頑強な打刀姿。(
刀身拡大写真) 彫物:裏の腰元には護摩箸状の二筋樋の彫物がある。 鍛肌:地肌は小板目肌が密に詰んで強靭な鍛肌に鎬地柾目。 刃紋:小沸出来の中直刃は僅かに湾れて小互の目交え刃中互の目の沸足入る。刃縁には小沸凝縮して明るく冴える。 中心:生ぶ。大筋違の鑢目に化粧、棟小肉ついてここにも大筋違の鑢目。茎尻は刃上がりの入山形。目釘孔三個。佩表の鎬地には『芸州住出雲大掾正光』の長銘。裏には『慶應三年三月日』の制作年紀、同平地には細鏨で『三条宗近作』の切付銘がある。 帽子:中峰のびる。ふくらに沿って直ぐに中丸となる。
安芸広島城下の石橋正光は享和二年(1802)、幸十郎長政の四男として高野村(現山県郡北広島町)に生まれた。石橋姓を冠して兵七、弘之進と称する。三人の長兄も刀工だったようだが、現存する作品は少なく詳細は判明していない。技量的には正光が最も秀でて優品が遺されている。同工の作刀中、制作年紀の刻された最古のものは天保五年(1834)にはじまる。
文政十二年(1829)、二十七歳で出雲大掾を任官し、天保八年(1837)には隣村の
移原(現北広島町)に移住して鞴を構えたという
(注)。この頃から正光の名声は幕府にも知られるところなり、藩主浅野家への刀の献上された資料がみられ、一方では袴の着用や所行の際に帯刀することを許されている。安政五年(1858)、扶持米取となり安芸広島、浅野家の御用鍛冶となった。
幕末の騒乱期、長州戦争に関連してか隣藩浜田藩からの注文もうけて息子の卯吉、弟子の宮太とともに調製にあたったという。現在確認されている最期の年紀作は明治八年(1875)の作刀がある。翌明治九年(1876)、所謂、廃刀令が布告され作刀を断念したのであろう。明治維新に端を発する日本刀を巡る環境の激変を見届け、三年後の明治十二年(1879)七十八歳の生涯を終えた。
この刀は石橋正光六十五歳の作品。鎬筋高く浅めの反りがついて、ずっしりと重い体躯に鎬地の幅に比して平地が広く、元先の幅差はさまに開かずに中峰延びる新々刀期の典型。大きく穿かれた第一と第二の目釘孔および茎尻の第三目釘孔は、複数の竹目釘で確りと柄下地に固定すべく実利に念頭を於いた注文打ちの証である。長期に亘り外装に納まっていたのであろう、茎には錆による朽込みがみられ、刻された銘文・年紀に底銘となる文字があるものの、元姿を留めて豊かな肉置きを保持する健全な体躯が好ましい。裏腰元に刻された護摩箸の二筋樋は大和奈良鍛冶の三条宗近によるものであろうか、佩裏茎の平地には『三条宗近作』
(注)の切付銘がある。当時の制作と鑑せられる時代打刀拵に収まっている。
附)黒石目地塗青貝散鞘打刀拵 (
打刀拵全体画像・
刀装具拡大画像)
- 縁頭:梅に鳳凰図、赤銅魚子地、高彫、金銀色絵、無銘
- 目貫:賢人図、赤銅容彫、金色絵
- 鐔:十字木瓜形、楓図、鋤下彫、鋤残耳、銘:明珍紀保次
- 柄:白鮫着、黒色常組糸、諸撮菱巻
山銅時代はばき、古研ぎ、白鞘・つなぎは付属しておりません。
参考資料:本間薫山・石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年(注)『石橋正光屋敷跡』(広島県山県郡北広島町移原)(注)『三条宗近』:「三笠山麓住三条小鍛治宗近」などと銘を切るという。大和国奈良住、文化頃(1804~)から数代続いた