N18802(W1801)

寸延短刀 銘 大道作 附)棕櫚青貝微塵玉虫塗鞘小さ刀拵

古刀 室町時代末期 (元亀頃/1570-72) 美濃
刃長32.9cm 反り0.7cm 元幅29.9mm 元厚6.0mm

特別保存刀剣鑑定書

附)棕櫚青貝微塵玉虫塗鞘小さ刀拵




剣形:平造り、庵棟、身幅は広く、重ねやや厚めにふくら張る。やや深めの中間反りに先反りが加わる。安土桃山期に戦国大名やその家臣らが嗜好流布した異風堂々とした姿。(刀身拡大写真
彫物:表裏には棒樋の彫物がある
鍛肌:板目に杢目肌を交えて棟寄りに柾を配している。総体に鍛接部が緻密につんで鉄色冴えて地鉄潤う。地沸つき淡い白け映りがあり、肌目に沿った地景がある。
刃文:刃区をやや低く焼き出し、総体匂口締まりごころに焼刃の高い大互の目は処々箱がかり、逆がかる互の目を交える自由闊達な作風。
帽子:乱れ込んで強く掃きかけて小丸となりやや長めに返る所謂『地蔵鋩子』となる。
茎:生ぶ。茎目釘孔三個。鑢目は檜垣、棟肉平。刃側の中程を張らせて茎尻を細く絞る舟底形で浅い栗尻に結ぶ。やや小振りの細鏨で『大道作』の三字銘がある。

 大道(初銘『兼道』)は志津三郎兼氏九代孫と伝えられ、戦国武将織田信長に仕えた刀工。兼常(のちの政常)、兼房(のちの氏房)と並ぶ良工として知られている。 初銘の『兼道』作としては最古の年紀作、天文十六年紀(1547)にはじまり永禄五年紀(1562)の作品を観ることができ、おおよその活躍期を知ることが出来る。
 『大道記』によると永禄十二年春(1569)に正親町(おおぎまち)天皇に名剣を献上し、その功績により『陸奥守』に任ぜられ、さらには『大』の一字を賜り、その栄誉を記して兼道の上に『大』を冠して『大兼道』と称号し、のちに『大道』と銘を改めている。
 『大道』銘および『陸奥守』を冠したものは天正元年(1573)九月年紀のある刀にはじまり、以降天正十九年紀(1591)までのものがあり、兼道(大道)の槌住地については天文十六年紀(1547)「濃州関住」にはじまり、天正十九年紀(1591)「濃州岐阜住」の記録が残っている。
 前述の資料および現存する年紀作より勘案すると、『大兼道』・『大道』の称銘は、およそ元亀年間(1570-72)の数年間であったとおもわれ、『大兼道』・『大道』銘の鑢目は本伝を示す檜垣鑢となっているが、天正元年の『陸奥守』受領以降の鑢目は勝手下りになっている。
 『兼道』一派は新刀期の三品派の始祖としても高名である。文禄年間(1592-95)には伊賀守金道・来金道・丹波守吉道・越中守正俊の四子を引き連れて上京し西の洞院夷川へ移住したと伝えられている。
 長子の伊賀守金道は文禄二年(1593)に日本鍛冶惣匠の称号を天子より賜り、幕政時代を通じて鍛冶受領の斡旋を行っている。次男の来金道、三男の丹波守吉道、四男の越中守正俊らは桃山時代の豪華絢爛な作風を採り入れて、美濃伝に相州伝を強く加味した個性豊かな遺作を残して名高い。
 表題の威風堂々とした平造脇指は戦陣に臨む武将の太刀の添差として具えた一口であろう。南北朝時代の相州廣光や秋広の作品を彷彿させる。相州物特有の舟底形茎には檜垣鑢が施され、やや小振り細鏨の三字銘が刻されている元亀頃の制作である。450年におよぶ茎の漆黒の錆味良好に鑢目鮮明、典型の三字銘の鏨枕明瞭な優品。

附)棕櫚青貝微塵玉虫塗鞘小さ刀拵 (拵全体写真 佩表佩裏 / 刀装具各部写真
時代山銅一重腰祐乗鑢はばき、白鞘付属
注)登録証・特別保存刀剣鑑定書にはわきざし(脇指)と記されています
参考文献 : 鈴木卓夫・杉浦良幸 『室町期美濃刀工の研究』 里文出版 平成十八年