T10865(W2782)

脇指 銘 飛騨守藤原氏房 附)潤石目地塗陰陽蒔絵鞘小さ刀拵

新刀 江戸時代初期(慶長頃/1596~) 尾張
刃長 36.6cm 反り 0.8cm 元幅 31.9mm 元重 6.4mm

特別保存刀剣鑑定書

附)潤石目地塗陰陽蒔絵鞘小さ刀拵

保存刀装具鑑定書(鐔)

保存刀装具鑑定書(二所物)


剣形:冠落造、庵棟が高く、鎬筋が殊のほか高い。身幅広く、反りがやや強めについてふくらが張る。(刀身拡大写真) 鍛肌:板目肌に流れる肌を交え、地錵が厚くついて黒みがかった地景が湧き出す。鎬地は烈しい柾目肌。 刃紋:錵本位の湾れに大互の目の節を焼いて処々棟焼きかかる。刃中匂い深く、刃縁にはやや粗めの錵が付いて太い錵筋、金筋が芋蔓状態に長く絡んで二重刃となり、処々ほつれて錵匂いの闊達な働きがある。 帽子:焼きの深い帽子の焼刃は更に沸づき、地蔵風に中丸となり返り深く焼き下げて棟焼きとなる。 中心:生ぶ。刃上がりの茎尻。鑢目は大筋違。茎孔弐個。佩表の鎬筋上にやや大振りの長銘『飛騨守藤原氏房』がある。  飛騨守氏房は若狭守氏房の子。永禄十年(1567)、美濃国関に生れ、幼名を河村伊勢千代と称した。のちに平十郎と改める。父である若狭守氏房が尾張国清洲の城主、織田信長に仕えて抱鍛冶となり、天正五年(1577)、信長に従い近江国安土城下で駐鎚したのに伴い、信長の三男織田信孝の小姓として出仕し、父と共に織田信長に仕えた。同十年(1582)六月二十一日、本能寺の変で信長自害の後、同十二年(1584)尾張国清洲城下で蟹江城主、佐久間正勝の扶持(父若狭守三十貫文・伊勢千代百貫文)を受け、同十六年(1588)から清洲城下で父若狭守氏房について鍛刀を始めている。同十八年(1590)五月十一日、父の没後は一門の同姓の叔父、初代信高に師事して鍛刀を学んだ。同二十(1592)年五月十一日、二十六歳で『飛騨守』を受領し『飛騨守氏房』を襲名している。慶長十五年(1610)名古屋城築城とともに同十六年(1611)清洲から名古屋鍛冶町(現在の中区丸の内三丁目あたり)に移住し、寛永八年(1631)正月、家督を嫡子『備前守氏房』に譲り隠居。同年十月二十七日没。享年六十五。名古屋大須門前町の東蓮寺(現在は昭和区八事に移転)に睡る、法名『前飛州大守無参善功居士』。
 銘は刀や脇指の場合、目釘孔の下から銘を切り始めるものが多く、本作の如くのびのびとした見事な鏨使いである。藤原氏房の『原』の四画目が二画目に突きだしたもの(本作)は壮年期の作に多く見られるとも云われている。錆色美しく豪快な鏨運びで刻された銘字も鮮明。
 二代氏房の手になるこの脇指の地鉄は板目肌の刃寄りに流れる肌目を交えよく錬れた頗る強靭な鍛肌。鎬地の肉を削いで鎬筋が棟に抜ける鋭利な冠落造は素早い抜刀を念頭にした添指として重用され、身幅広く適度に反りがついてふくらの張った強固かつ勇壮な体躯は戦国武将好みの剛刀。刃文は錵本位の湾れ刃、やや粗めに錵づき、二重刃となり、一部は地に錵溢れ湯走りとなり、ここに太く長い地景が絡む。平地はやや粗めの錵が厚く付いて、黒い地景が湧き出して刃縁に二重三重状に湯走りとなり、ここに芋蔓状の太く長い金線がつくなど、その地刃はさながら郷義弘の作域に迫るもので出来がよい。

附)潤石目地塗陰陽蒔絵鞘小さ刀拵
(打刀拵全体写真・ / 刀装具各部写真
  • 縁頭:笹蟹図、赤銅魚子地、高彫、金色絵、無銘
  • 目貫:笹蓑亀図、赤銅容彫、金色絵
  • 小柄・笄(二所物):花桐御簾図、山銅地、毛彫、金色絵、無銘、京金具師(保存刀装具
  • 鐔:葵唐草御簾図、赤銅磨地、金銀平象嵌、無銘、加賀象嵌(保存刀装具
  • 鞘:潤石目地塗、蔦に唐草文・沙耶文・楓文・陰陽蒔絵
  • 柄:白鮫着、革組上巻茶石目漆塗
銀着一重はばき、白鞘付属