G2744(W3219)

脇指 銘 高橋長信造 安政三年八月日 附)朱黒塗分腰小刻石目地鞘腰刀拵

新々刀 江戸時代末期(安政三年/1856) 武州
刃長 39.5cm 反り 0.8cm 元幅 33.7mm 元重 7.5mm

特別保存刀剣鑑定書

附)朱黒塗分腰小刻石目地鞘腰刀拵

10回まで無金利分割払い(60回まで)

剣形:菖蒲造り、庵棟。身幅広く両区深く、鎬の稜線が高い。元先の幅差さまで開かずふくらが張る勇壮な姿。(刀身拡大写真
地鉄:細やかに詰んだ小板目鍛えに地沸が厚くつき、柾目状の地景が細密に顕れ煌めく。
刃紋:互の目の腰刃を焼いて湾れに互の目、小互の目、箱刃交える。刃縁に沸が厚く積もり匂口広く所謂”バサける”様を呈して頗る明るい光彩を放つ。刃中は匂い深く充満し、焼きの谷には太い沸足が射し、刃縁から刃先に向かい沸が煙込んで金線・砂流ししきりとかかる。鎬地・棟には総体湯走りかかる。相州伝の清涼かつ闊達な沸は冴え冴えとした躍動に溢れている。
帽子:小丸に突き上げて先掃きかける。
茎:生ぶ。鑢目逆筋違、磨り出しには香入れを包む袱紗の複雑な合わせ目の模様を意匠に採り入れた『香包化粧鑢』がある。棟小肉つき、ここにも逆筋違の鑢がある。茎尻は刃上がり栗尻、目釘孔一個。茎の仕立ては丁寧に錆色良好で完存。佩表の目釘孔下、平地には大振りの銘『高橋長信造』の銘が楷書体で入念に刻され、裏には得意の草書体で『安政三年八月吉日』の制作年紀がある。

 新々刀上作鍛冶、高橋長信は文化十四年(1817)九月十八日、雲州松平藩領内出雲郡三分市村の農民、瀬崎平助の次男として生まれた。幼名を善造といい、のちに理兵衛と称した。 文政十二年(1829)、縁あって十三歳の時に松江城下の十五代・幸之助冬廣の門人となる。天稟を備えた長信はその技倆上達早く、病弱で実子もなかった十六代・甚蔵冬廣の養子となり、連綿たる冬廣宗家十七代目を継承して松江藩主松平定安に抱えられた。
 師匠の幸之助冬廣の歿年、天保九年(1838)四月十五日以降、藩命により長信二十二歳の時に江戸に出府して麻布に居を構え、出羽米沢上杉藩の抱鍛冶であった名匠、加藤長運齋綱俊に師事すること二年半、同十二年(1841)二月頃に一家を成して独立、『高橋長信』と名乗った。
 同工の作刀は天保十二年二月日にはじまり、明治四年八月日の廃刀令(1838~1871)までの33年間に及ぶ。雲州藩赤坂上屋敷界隈に鞴を構え、後に麹町三軒家に居を構えた。聴覚の衰えからか、大阪の長綱が聾であった故に『聾 長綱』と刻して賞翫されたことに倣い、長信三十八歳、安政元年紀の作に『聾 長信』と刻した短刀がある。
 元治元年(1864)、四十八歳頃になると『聾司』と号するようになり、慶応年間以降は『理兵衛』を改めて自らを『高橋聾司』と名乗るようになった。 弘化四年(1847)八月頃から嘉永四年年(1851)二月頃までは、自らの婚姻、養父母の病と死去祭祀および家督相続などのために一時期松江に帰郷している。
   成田山新勝寺の御堂『光明寺』(元禄14年/1701に旧本堂として建立、重要文化財指定)の正面には『安政江戸地震』直後の安政三年に高橋長信が奉納した総長150㎝の特大の剣が全長3mmにおよぶ大絵馬に装着(注)されて今尚掲げられている。
 権威ある切り手『山田浅右衛門』が刃味上々と讃えて数々の裁断銘を刻んだことや刀剣界の名手『伊藤四郎左衛門兼重』の需に応じて作刀したことなどから同工の作刀の斬れ味優れると評判は上々で、長信自ら厚い鉄板に三度の試し切りをして納得のいったものに銘を切ったという。また当時江戸四谷に住し新々刀第一の巨匠と称賛された源清麿はたいへんな酒豪で容易に作刀せず、注文主に断りきれなくなると長信の処から焼き入れ前の素述べ刀を譲り受けて自ら焼き入れしたのちに自身銘を切って渡したとも伝えられている。
 世相は攘夷倒幕、開国佐幕かと不穏で一触即発の様相であったこと、隣国の長州藩は極めて急進的で倒幕の急先鋒であったことから、征長の役による君命で元治元年(1864)十月頃雲州に帰国して鋼刀の鍛造に専念している。功績あって慶應元年三月八日、藩主、松平定安に賞せられて士分に取り立てられ、『雲陽士』又は『雲州士』と茎に切り付けている。
 時勢は、慶應三年(1867)十月二十四日の将軍徳川慶喜の大政奉還に始まる幕藩体制の崩壊、明治四年(1871)、同九年(1876)の二度にわたる廃刀令布告により鍛刀を断念。喘息を患い同十二年(1879)五月二十日波瀾万丈の生涯に幕をおろした、享年六十三。
 本作は麹町三軒家打ちであろう。霞のごとく匂で充満した刃中は柾目鍛えに呼応した金線・砂流し幾重にもかかり、帽子も掃きかけている様相は相州伝の就中、郷義弘辺りに私淑した作刀。威風堂々とした体躯は素早い刃抜けを期して鎬筋高く棟を削ぎ落としており、湯走り状の棟焼きは強靭な防御を念頭に於いている。鑢目は通常の反対『逆筋違い』であることから同工は左利きであったことが推量されよう。頗る丁寧な仕立ての茎は保存状態優れ、津田越前守助広に倣った磨出しの鑢目は香包鑢の手法で化粧を施している。謹厳実直な楷書体の銘を表に刻し、裏年紀は伸びやかな鏨でを流暢な草書体で刻している。

制作当時の上質時代腰刀拵が付属している。内外ともに完存の優品である。

附)朱黒塗分腰小刻石目地鞘腰刀拵
(打刀拵全体写真・ / 刀装具各部写真
  • 総金具(縁頭 鯉口 裏瓦 鐺):蔦唐草図 朧銀 鋤彫 金色絵 無銘
  • 目貫 栗形:獅子図 朧銀 容彫 金色絵
  • 鐔:紗綾文 朧銀 磨地 金色絵 銘 喜寿 武十(花押)
  • 小柄:鉈豆図 朧銀 磨地 高彫 色絵 銘 安親
  • 柄:白鮫着 栗漆塗革菱巻
金着せ一重はばき、白鞘入
(注)安政二年十月二日に関東南部を震源地とした所謂『安政江戸地震』が発生。大名屋敷の崩壊や火災も相次ぎ、水戸藩の藤田東湖も死亡した。直後には鯰絵の瓦版が大量に発行され天変地異厄払いを祈念する奉納が盛んにおこなわれた。
参考資料、写真抜粋:安部安弘『雲藩刀工高橋聾司長信の研究』黒潮社、昭和六十三年