C6169(S8103)

刀 銘 飛騨守藤原氏房

新刀 江戸時代初期(慶長頃/1596~) 尾張
刃長 71.0cm 反り 1.7cm 元幅 31.6mm 先幅 22.1mm 元重 7.6mm
特別保存刀剣鑑定書

10回まで無金利分割払い(60回まで)

剣形:鎬造り、庵棟高く、鎬筋高く棟にむかって肉を削ぐ刃抜けをよさを考慮した体躯。身幅広く元先の幅差さまで開かずに大峰に結ぶ威風堂々とした慶長新刀姿。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌地錵よくついて鍛肌に呼応した太い地景が湧き出す強靭な肌合いをしている。
刃紋:錵本位ののたれに大互の目交える。刃縁には粗めの錵がついて処々地に溢れて湯走りとなり、二重刃・跳び焼きがある。 刃中の匂い深く、太い錵足が入り、葉が浮かんで錵匂いの闊達な働きがある。
帽子:鋩子の焼刃高く・強く、乱れ込んで先中丸となり、棟の返りは深く焼き下げる。
中心:生ぶ。刃上がり茎尻。鑢目は大筋違。茎孔壱個。佩表の目釘孔下、鎬筋には大振りの力強い鏨で『飛騨守藤原氏房』の長銘がある。
 飛騨守氏房は若狭守氏房の子。永禄十年(1567)、美濃国関に生れ、幼名を河村伊勢千代と称した。のちに平十郎と改める。父である若狭守氏房が尾張国清洲の城主、織田信長に仕えて抱鍛冶となり、天正五年(1577)、信長に従い近江国安土城下で駐鎚したのに伴い、信長の三男織田信孝の小姓として出仕し、父と共に織田信長に仕えた。同十年(1582)六月二十一日、本能寺の変で信長自害の後、同十二年(1584)尾張国清洲城下で蟹江城主、佐久間正勝の扶持(父若狭守三十貫文・伊勢千代百貫文)を受け、同十六年(1588)から清洲城下で父若狭守氏房について鍛刀を始めている。同十八年(1590)五月十一日、父の没後は一門の同姓の叔父、初代信高に師事して鍛刀を学んだ。同二十(1592)年五月十一日、二十六歳で関白秀次の斡旋により飛騨守を受領し、その直前に氏房を襲名している。
 慶長十五年(1610)名古屋城築城とともに同十六年(1611)清洲から名古屋鍛冶町(現在の中区丸の内三丁目あたり)に移住し、寛永八年(1631)正月、家督を嫡子『備前守氏房』に譲り隠居。同年十月二十七日没。享年六十五。名古屋大須門前町の東蓮寺(現在は昭和区八事に移転)に睡る、法名『前飛州大守無参善功居士』。
 銘は刀や脇指の場合、目釘孔下から銘を切り始めるものが多く、本作の如くのびのびとした見事な鏨使いである。本作のように藤原氏房の『原』の四画目が二画目に突きだしたものは壮年期の作に多く見られると云われている。
 江戸時代初期にまま見受けられる大鋒で身幅の広い豪壮な姿は慶長新刀の特徴を明示し、飛騨守氏房の高度な技量と婆娑羅の機運を窺い知ることができる。
銀着せ時代はばき、白鞘入