G22712(W5089)

脇指 銘 陸奥守大道作 附)黒石目地塗鞘小さ刀拵

古刀 室町時代末期 (天正頃/1573~) 美濃
刃長40.7cm 反り0.8cm 元幅32.3mm 元厚5.3mm

特別保存刀剣鑑定書

附)黒石目地塗鞘小さ刀拵

10回まで無金利分割払い(60回まで)

剣形:平造り、庵棟、寸が延びて身幅広く重ねやや薄め。中間反りに先反りが加わり、元先の幅差さまで開かずにふくらが張る。安土桃山期の戦国武将や重臣らの婆娑羅の機運に応じた異風堂々とした姿をしている。(刀身拡大写真鍛肌:大板目に杢目肌を配して刃寄りと棟寄りには流れる肌合いの柾目鍛を交える。青黒い鉄色は地沸ついて潤い明るく冴える。処々湯走りかかり、地鉄鍛えの肌目に沿う太い地景が深淵より湧き出す。
刃紋:腰元に互の目の腰刃を焼き、表裏の刃文が揃う浅い湾れに互の目を配する焼刃は物打ちで焼刃高く処々沸叢づいて匂深く、刃縁にはほつれる刃や金筋交えて地に湯走りかかる。
帽子:乱れ込んで先中丸となり掃きかけて深く返る。
茎:生ぶ。茎目釘孔一個。鑢目は勝手下がり、棟肉平で此所にも勝手下がりの鑢目がある。茎尻は栗尻形。履表やや棟寄りに大振りの長銘『陸奥守大道作』がある。

 『陸奥守大道』(初銘『兼道』)は志津三郎兼氏九代孫と伝えられ、室町時代後期の兼常(のちの政常)、兼房(のちの氏房)と並ぶ良工として知られている。 『兼道』銘として、最古の年紀作は天文十六年紀(1547)にはじまり、永禄五年紀(1562)までの作品を観ることができるもとからおおよその活躍期を知ることが出来よう。
 『大道記』によると、兼道は永禄十二年春(1569)に正親町(おおぎまち)天皇に名剣を献上し、その功績により『陸奥守』に任ぜらたという。さらには『大』の一字を賜り、その栄誉を記して兼道の上に『大』を冠して『大兼道』と称号しさらに『大道』と改銘した。
 『大道』銘および『陸奥守』を冠したものは天正元年(1573)九月年紀のある刀にはじまり、以降天正十九年紀(1591)までのものがあり、兼道(大道)の槌住地については天文十六年紀(1547)「濃州関住」にはじまり、天正十九年紀(1591)「濃州岐阜住」の記録がある。
 『兼道』は新刀期の三品派の始祖としても高名である。文禄年間(1592-95)には伊賀守金道・来金道・丹波守吉道・越中守正俊・四子を引き連れて上京し西の洞院夷川へ移住したと伝えられている。
 長子の伊賀守金道は文禄二年(1593)に日本鍛冶惣匠の称号を天子より賜り、幕政時代を通じて鍛冶受領の斡旋を行っている。次男の来金道、三男の丹波守吉道、四男の越中守正俊らは桃山時代の豪華絢爛な作風を採り入れて、美濃伝に相州伝を強く加味した個性豊かな遺作を残して名高い。
 表題の寸延び平造りの段平脇指は太刀の添指として具えられたもの。南北朝時代の相州物、取り分け長谷部あたりを念頭に於いた作刀。同工の作刀中で『兼道』および『大兼道』の称を号した元亀以前(~1572)の茎鑢は本伝を示す檜垣鑢となっているが、『陸奥守』受領以降の作品、すなわち本作のように天正元年以降の『陸奥守』を冠する『大道』銘の鑢目は勝手下がりになっている。

附)黒石目地塗鞘小さ刀拵拵佩表全体写真拵佩裏全体写真各部拡大写真
  • 縁頭:秋草蝶図 四分一磨地 毛彫 金・山銅色絵
  • 割笄:秋草蝶図 四分一磨地 毛彫 金・山銅色絵、銘:信定(花押)
  • 小柄:李白鑑瀑図 四分一磨地 毛彫 金・山銅色絵
  • 栗形・裏瓦: 鑑瀑図 四分一磨地 毛彫 金・山銅色絵
  • 目貫:瓢箪に麦藁納豆図 四分一容彫 金色絵
  • 鐔:八つ木瓜形 桐陰陽繋透図 四分一地
  • 柄:白鮫着 黒細糸組上蛇腹菱巻
銀着せ二重はばき、白鞘付属
参考文献 : 鈴木卓夫・杉浦良幸 『室町期美濃刀工の研究』 里文出版 平成十八年