S20383(W2779)

寸延び短刀 銘 播磨守輝広作 附)金梨子地塗鞘小さ刀拵

新刀 江戸時代初期(元和頃/1615~) 尾張・安芸
刃長 30.9cm 無反り 元幅 27.0mm 元重 7.9mm

特別保存刀剣鑑定書

附)金梨子地塗鞘小さ刀拵

剣形:冠落とし造、三つ棟。無反りで身幅やや広く、ふくら豊かについた寸延び短刀。腰元の重ねが頗る厚くついて腰上は刃抜けの良さを念頭に棟肉を削いだ強靭な体躯。(刀身拡大写真
彫物:茎に掻き通した腰樋の樋先は鎬筋に添って長く突き上げている。
鍛肌:杢目に板目交えてよく錬れて地沸厚くついて潤い、地景太く入って肌模様が明瞭に湧き出して鉄色綺麗に明るく冴える。
刃紋:沸出来の湾れ刃。刃縁には銀砂の如く沸が厚く積もり、刃縁の匂深く充満し、砂流しかかり、やや粗めの沸の粒子が昴然と光り輝く。
帽子:焼刃高く浅く湾れて先小丸となりやや深く返る。
中心:生ぶ。腰樋は茎尻まで掻き通して大筋違の鑢目がある。大きく穿かれた目釘穴一個。勝手下がりの鑢目、棟肉平でここにも勝手下がりの鑢目がある。刃上がりの栗尻張る。指表の樋中にやや小振りの鏨で『播磨守輝広作』の長銘がある。

 福島正則は豊臣秀吉の小姓として仕え数々の軍功に耀き、小田原征伐、朝鮮出兵などに従軍。文禄四年(1595)尾張清洲二十四万石に転じた。関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して戦功をあげ、安芸備後両国四十九万八千石の大名となり広島城に入った。
 初代肥後守輝広、俗名藤四郎は美濃国関兼常の末葉で、はじめ犬山城下に住し『兼友』または『兼伴』と銘を切ったという。犬山城主の池田信輝に仕えて諱字をうけ『輝広』と改める。文禄四年(1595)、尾張清洲城主の福島正則の寵愛を受けて召し抱えられ清洲城下に移り禄二百石与えられた。福島正則の推挙で埋忠明寿の門人となり慶長元年(1596)に肥後守を受領、同五年(1600)に福島正則の安芸備後転封に伴い同六年三月に安芸広島へ移住。同工の作品は非常に少なく、僅かに二十口ほどと伝えられる寡作刀工である。
 表題の作者二代藩磨守輝広は尾張国蟹江の出身で、名を甚八という。。肥後守輝広の高弟で初銘を『兼久』、のち婿養子となり初代輝広とともに埋忠明寿の門人となる。慶長六年(1601)に福島正則が芸備に移封に随い義父とともに安芸広島に移住して藩工となり、のち新藩主の浅野長晟に仕えた。慶長十四年頃『播磨守』を受領して家督を継承している。慶長15年(1610)にはじまり、寛永二十年(1643)までの年紀作がある。
 表題の冠落とし造の寸延短刀は播磨守輝広の精鍛作。寸のびて身幅広く、重ね厚く三つ棟に仕立てた雄渾な造り込み。生茎は極めて良好な保存状態で繊細な大筋違鑢が掛けられ、広く茎に掻通された樋中には力強く鏨枕が立つ『播磨守輝広作』の長銘がある。名手として誉れ高き義父豊後守輝広の作刀指導を修め、さらには巨匠埋忠明寿門下で研鑽を積んだ豊かな芸術的感性は古作の相州伝上位作に肉迫し、輝広の本領が発揮された大和相州伝の傑作である。

附)金梨子地塗鞘小さ刀拵拵全体写真刀装具各部写真

  • 総金具(縁頭・鐺・鐔)桐図 鉄地 金布目象嵌 無銘
  • 馬針 唐草に栗鼠図 鉄地 金銀布目象嵌 無銘
  • 柄 白鮫着 黒色常組糸 変わり一貫巻

金着二重はばき、白鞘・共箱付属
参考文献:本間薫山・石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年