M16049(T5009)

寸延び短刀 銘 兼常 附)黒蝋色塗鞘合口短刀拵

古刀 室町時代末期(天正頃/1573~)美濃
刃長31.2cm 反り0.4cm 元幅29.9mm 元重5.5mm

特別保存刀剣鑑定書

附)黒蝋色塗鞘合口短刀拵

 10回まで無金利分割払い(60回まで)

剣形:平造り、庵棟。寸延びて身幅広く、やや厚めの重ねながらも平肉つかず。先反りがつきふくら張る。表裏には茎に掻き流しの棒樋の彫物がある。室町時代後期に流布した寸延短刀の典型的な体躯をしている。(刀身拡大写真
鍛肌:杢目に板目を交えて、刃寄りには流れて柾ごころの鍛肌をしている。総体に白けごころの地映りがある。
刃紋:小沸出来の互の目は高低変化あり、腰開きの丁子刃や逆がかって矢筈刃、箱互の目を交えて賑やか。刃中は沸匂いの働きが豊かに、互の目の足が刃先に放射して、足を跨いで砂流しかかり、処々に葉が浮かんで匂口は頗る明るく冴えている。
帽子:焼刃高く、逆ががった互の目を焼いて湾れ込み地蔵風に中丸となり返り深く焼き下げる。
中心:生ぶ。刃長に比してやや短めで小降りな茎。刃側を卸して茎尻が細くなり栗尻に結ぶ。表裏の鑢目は檜垣、目くぎ穴二個。佩表棟側中頃には二字銘『兼常』とある。刃側は小肉つき、棟肉は平。

 兼常の出自は大和千手院と伝えられ『七頭制』(注1)の奈良派に属する刀工。兼吉とともに室町期の早くにその名がみられ、現存するものでは永享三年紀(1431)の短刀があり、事実上の初代とされている。以降室町時代を通じて同名の作刀がある。
 『兼常』の末流には他国へ移住したものもおり、もっとも著名なものの一人に『政常』(注2)がいる。
 この寸延び短刀は素早い抜刀を念頭に先反りをつけて、平肉を削いだ鋭しい体躯は組み合い戦法に具えた添指。茎の錆味良好に檜垣の鑢目も鮮明であり、地刃ともに健全な同作中の白眉である。

附)黒蝋色塗鞘合口短刀拵拵全体写真・拵全体写真・刀装具各部拡大写真
  • 縁頭:角所
  • 目貫:日月図 銀地容彫
  • 小柄・笄:雲文星座図 赤銅磨地 鋤出彫 金色絵 金小縁 無銘
  • 柄:白出鮫着
金着二重はばき、白鞘付属

参考文献:
鈴木卓夫・杉浦良幸『室町期 美濃刀工の研究』里文出版、平成十八年
『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和五十九年三月三十一日


(注1)『元亀本刀剣目利書』によると関の祖鍛冶『兼光』は鍛冶仲間の自治組織である『鍛冶座』を結成し、奈良の春日大社から、関の春日神社へと刀祖神を分祀して同社を関鍛冶の本拠地として作刀に励んだ。刀工たちは善定派(兼吉)・室屋派(兼在)・良賢派(兼行)・奈良派(兼常)・得永派(兼弘)・三阿弥派(兼則)・得印派(兼安)の『七頭制』(関七流)を形成して勃興した戦国大名や豪族からの需要を引き受けて最盛期を迎えるようになる。

(注2)初代政常は名を納戸佐助、後に太郎助と改めた。美濃国鍛冶八代目奈良太郎兼常の末流、八代目納戸助右衛門兼常の次男として天分五年(1534)に美濃国納土、現在の関市千年町あたりに生まれた。
 永禄十年(1567)、33歳で春日郡小牧村に来住して独立、兼常と銘して天正十二年(1584)の『小牧長久手の戦い』で徳川家康の配下で槍百筋を製作して家康公より銀子を賜る。
 天正二十年(1592)五月十一日に相模守を受領し(注2)、当時の尾張小牧領主、池田輝政より『政』の字を与えられ兼常を政常に改銘した(注3)。
 慶長五年(1600)十一月十七日、政常66歳の時に、徳川家康の四男薩摩守松平忠吉が清洲城主になると同時に、福島正則の召に応じて小牧より清洲城下に移住、慶長八年(1603)より忠吉公の抱え鍛冶として仕えている。慶長十二年(1607)三月、藩主松平忠吉の病没を悼んで一旦隠居した。
 同年四月二十六日に家康九男、徳川義直が清洲城主となり、政常は百石余の高禄を得て実子の二代とともに義直公に仕えた。同十四年(1609)実子の二代政常が早世したため美濃国より大道の子を養子(三代美濃守政常)として迎え、自らは『相模守藤原政常入道』として復帰している。
 同十五年二月に名古屋城開府に伴って、名古屋城下富田町(現在の名古屋市中区桜通本町角)に移り鍛刀に従事。元和五年(1619)二月二十八日没、享年八十五。作刀年紀は天正二十年、慶長元年、二、三、六、九、十一年の裏銘がある。