A76239(W6960)

脇指 銘 兼光 附)棕櫚青貝微塵散塗鞘小さ刀拵

古刀 室町時代後期(天文頃/1532~) 美濃
刃長35.2cm 反り0.7cm 元幅29.1mm 元重5.8mm

保存刀剣鑑定書

附)棕櫚青貝微塵散塗鞘小さ刀拵

10回まで無金利分割払い(60回まで)

剣形:平造り、庵棟。寸延びてやや厚めの重ね。身幅広めに腰元で反り、併せて先反りが強くつく。平肉を減じて切先のふくら豊かに張る。室町時代後期に流布した平造り寸延脇指の典型的な体躯をしている。表には素剣の彫物、裏には棒樋に添樋の彫物がある。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌よく錬れて潤い、刃寄り・棟寄りが流れて柾ごころの鍛肌をしている。処々に地斑調の湯走りがあり、総体に白けごころの地映りがある。
刃紋:小沸本位の湾れに互の目、尖り刃・丁子刃を交えて、表裏の刃はよく揃いごころ。焼頭には二重刃状の跳焼を交える。刃中は匂が深く満ちて、互の目の足は刃先に放射して葉が浮かぶ。沸匂いの働きが豊かに互の目足を跨いで砂流しか頻りと流れて匂口が明るく冴える。
帽子:大互の目を焼いて乱れ込み地蔵風に大丸となり返り深く焼き下げる。
中心:生ぶ。刃長に比してやや短めで小降りな茎。刃側を卸して茎尻が細くなり栗尻に結ぶ。表裏の鑢目は檜垣、目くぎ穴一個。佩表棟側下方には二字銘『兼光』がある。刃側は小肉つき、棟肉は平となり、ここには勝手下がりの鑢目がある。

 美濃国では鎌倉末期から南北朝期(1333~92年)にかけて、『三郎兼氏』が大和国から多芸郡志津(現、養老郡南濃町志津)に来訪し、越前国からは鎌倉末期頃に『元重』が、さらには『金重』が関の地に来住したと伝えられている。越前からは『国長・国行・為継』らが赤坂の地(大垣市赤坂町)へと移住したとつたえられる。
 南北朝末期の永和頃(1375~)には大和国からは関鍛冶の祖と伝わる『兼光』が関の地に来住して美濃国の刀鍛冶は黎明期を迎えた。
 『元亀本刀剣目利書』によると関の祖鍛冶『兼光』は鍛冶仲間の自治組織である『鍛冶座』を結成し、奈良の春日大社から、関の春日神社へと刀祖神を分祀して同社を関鍛冶の本拠地として作刀に励んだ。刀工たちは善定派(兼吉)・室屋派(兼在)・良賢派(兼行)・奈良派(兼常)・得永派(兼弘)・三阿弥派(兼則)・得印派(兼安)の『七頭制』(関七流)を形成して勃興した戦国大名や豪族からの需要を引き受けて最盛期を迎えるようになる。
 往時は結束を誇った『七頭制』組織は、室町末期になると織田信長による『楽市楽座令』の施行により消滅し関鍛冶や末関鍛冶らは全国の城下町へと新しい需要先を求めて四散、新刀期の日本刀制作に多大なる影響を及ぼした。
 『兼光』の名は室町時代をつうじてみられ、奈良、善定、得印派に属して各代おおいに繁昌している。文明頃(1469~)および永正頃(1504~)の『兼光』は尾張津島で駐鎚したという。
  この脇指は素早い抜刀を念頭にして先反りを深くつけ、平肉を削いだ体躯は鋭い刃抜けを期す組み合い戦法に具えた添指であったであろう。掃表の素剣の彫物は、戦国武士の深い信仰心を顕し、樋中の腰元にある武勲跡は婆娑羅の機運到来を物語る。茎の保存状態優れ、銘字も鮮明。高度に調和の採れた添樋の彫物は美意識の高さを明示する関鍛冶『兼光』の典型作である。
 高位の武士の注文作であろう。内・外装ともに出来の優れた逸品である。

附)棕櫚青貝微塵散塗鞘小さ刀拵拵全体写真・拵全体写真・刀装具各部拡大写真
  • 縁頭:牡丹図 赤銅磨地 高彫色絵 無銘
  • 鐔:七宝文 銀地 無銘
  • 目貫:鴛鴦図 赤銅容彫 金色絵
  • 小柄:這龍図 赤銅魚子地 高彫色絵 無銘
  • 鐺:冨士山図 赤銅地 鋤下高彫 色絵
  • 柄:白鮫着 黒色常組諸捻菱巻
金着祐乗鑢はばき、金着厚切羽、白鞘入
参考文献:
鈴木卓夫、杉浦良幸『室町期美濃刀工の研究』、里文出版、平成十八年
杉浦良幸『美濃刀工銘鑑』、里文出版、平成二十年