T248336(S1996)

太刀 銘 長光

古刀 鎌倉時代末期 (元弘頃/1331~)
刃長77.8cm 反り2.5cm 元幅31.6mm 元厚6.6mm 先幅19.6mm

特別保存刀剣鑑定書

剣形:鎬造、庵棟低め、三寸程の磨上げ。腰反りが高くついて踏ん張りがあり、元身幅広く寸が延びて中鋒のびごころ。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌流れ総体肌たち地斑調に白け映りがたつ古雅な地鉄。
刃文:小沸主調の中直刃は浅く湾れて、小互の目・小乱れを交える。刃中は互の目の沸足が頻りとかかり、葉が浮かび古雅で豊かな働きがある。
帽子:中鋒やや詰まり、乱れ込んで焼き詰める。
茎:三寸ほどの磨上げ。薄く平肉がつかない茎に深い反りがつく。目釘孔二個。茎尻切。生ぶ茎部分の鑢目は大筋違い、磨上げ部分には切の鑢目がある。
 
 奥州には奈良時代から鎌倉時代にかけて多数の刀工が存在していたことを古伝書は伝えており、舞草・月山・玉造と呼称される蝦夷鍛冶らが挙げられている。
日本刀の源流をなす草創期の舞草鍛冶は岩手県一関市や平泉周辺を拠点に平安時代中期の安部氏に遣え、東北の都・平泉の軍備を担った集団で奥州鍛冶の中心的存在であった。 一関市北側の舞草神社と白山妙理大権現、馬頭観音を信仰し鍛刀に励んだという。鎌倉時代の古伝書、重要文化財指定の『観智院本銘尽写』(室町初期)には『光長 奥舞草・・・昔三千枝作進帝王彼三千枝世中流布せり・・・』とあり、光長は後鳥羽上皇に三千振りの刀を納めたたという。また天下の名工、古備前正恒の父『安正』は舞草鍛冶であり、源氏の宝刀『鬚切』は舞草鍛冶『文寿』であったことなど舞草鍛冶の繁栄ぶりが伺える。鎌倉時代初期、文治五年(1189)奥州藤原氏が滅亡すると奥州舞草鍛冶は衰退。諸国に移住して交流するものがおり、また宝寿の系譜に引き継がれ、さらには室町時代になると月山鍛冶が活躍するようになった。(注2)
  銘鑑による『長光』は元弘頃(1331~)出羽とあり、奧州古鍛治『光長』を始祖とする舞草鍛冶の鍛冶集団に属したという。『長光』はその優れた作刀技術を評価され大和朝廷の律令制度に組み込まれて山城に移住し、長谷部および平安城一門と交流を招聘された。同派の系譜は室町時代の村正に繋がるという(注1)。
(注1)光長(奧州舞草)→長光(舞草・月山・長谷部・平安城)→光長(平安城)→長吉(平安城)→村正(伊勢

 表題の太刀は僅かに磨上げながらも尚長寸で、身幅広く腰元で強く踏ん張り、腰反りが殊の外高い鎌倉時代往時の太刀姿を保持している。地鉄は地斑交じりの白けごころの映りがたち、うるみごころの刃文を呈し、平肉のつかない茎は草創期の毛抜形太刀の肉置きを彷彿させ奥州鍛冶の特徴が看取できる。古雅溢れる優品で資料的価値も高い。
(特別保存刀剣鑑定書には太刀 銘 長光 『国不明・時代鎌倉末期』 と記されています)
金着二重はばき、白鞘入
関連リンク:一関市博物館
参考資料:本間薫山/石井昌國 『日本刀銘鑑』 雄山閣 昭和五十年
(注2)鉄の文化は稲作とほぼ同時期にアジア大陸から玄界灘や日本海を経由して、または東シナ海を通じて中国大陸から伝播したとされている。しかしながら東北地方にはもっと早期より独自の鉄文化が生まれていたことから、ユーラシア大陸から間宮(タタール)海峡を渡り、樺太を経て北海道・東北へと繋がる北方経路もあったと考えられている。まさにこの「タタール」を「タタラ(踏鞴)」送風装置の語源とする説もある。
中国の古書『旧唐書(くとうじょ)』によると「倭国」(大和国)とならんで「日本国(ひのもとのくに)」の記述がある。「日本国」とは「蝦夷国(えみしのくに)」と呼ばれていた東北地方に他ならず、大和朝廷が蝦夷征討を経て強大な中央集権国家を形成していく過程で「日本(ひのもと=にほん)」を正式な国名として継承したのだという。
 古代大和朝廷が「日本国(ひのもとのくに)」、蝦夷の征討に躍起になった背景には、当時奧州は唯一の金の産地であったことや砂鉄や「餅鉄」などの鉄資源に象徴され、糠部の駿馬や王朝貴族の文化に欠くことの出来ない和紙や漆も産する。さらには北方交易による特産物や蕨手刀に象徴される高度な鉄文化が想定される。蝦夷の鉄資源と鍛冶技術を掌握した大和朝廷は捕虜とした蝦夷の鍛冶たちを「俘囚(ふしゅう)」と呼称して諸国の鉄産地に移住させて刀剣製造に従事させたと考えられている。