T315909(W1800)

小脇指 銘 相模守藤原政常入道

新刀 江戸時代初期(慶長十四年~元和五年/1609~1619) 尾張
刃長33.0cm 反り0.8cm 元幅30.7mm 元重6.2mm

 特別保存刀剣鑑定書

 

剣形:鵜ノ首菖蒲造り、庵棟。元身幅広く物打ち大きく張る。先反りやや深くついて鎬筋高く棟に向かって肉を削ぐ威風堂々とした堅強な姿。(刀身全体写真
鍛肌:板目肌やや肌たちごころに刃寄り流れる肌目を交えて鎬地は激しい柾目。平地は地錵が厚くついて煌めき、太い地景顕れる強靭な地鉄。
刃文:元に大互の目の腰刃を焼いて湾れに箱刃複式の互の目と丁子刃を焼いて表裏揃いごころ。刃縁にはやや粗めの錵がつき上半は湯走りかかり跳び焼き風の刃を交えて自由闊達な作域。刃中は匂い深く、金線はいり砂流し頻りとかかり、地刃ともの明るい。佩表鎬地には跳焼がある。
帽子:表は乱れ込んで掃き掛け、裏は小丸に返る。
中心:生ぶ。勝手下がりの鑢目。茎尻は栗尻張る。目釘孔弐個。鎬字には小振りで太い鏨で『相模守藤原政常』行を改して『入道』の長銘がある。銘の鏨太く、「常」の字の最終画縦棒を長く引く。
 初代政常は名を納戸佐助、後に太郎助と改めた。美濃国鍛冶八代目奈良太郎兼常の末流、八代目納戸助右衛門兼常の次男として天分五年(1534)に美濃国納土(のど)、現在の関市千年町あたりに生まれた(注1)
 永禄十年(1567)、33歳で春日郡小牧村に来住して独立、兼常と銘して天正十二年(1584)の『小牧長久手の戦い』で徳川家康の配下で槍百筋を製作して家康公より銀子を賜る。
 天正二十年(1592)五月十一日に相模守を受領し(注2)、当時の尾張小牧領主、池田輝政より『政』の字を与えられ兼常を政常に改銘した(注3)
 慶長五年(1600)十一月十七日、政常66歳の時に、徳川家康の四男薩摩守松平忠吉が清洲城主になると同時に、福島正則の召に応じて小牧より清洲城下に移住、慶長八年(1603)より忠吉公の抱え鍛冶として仕えている。慶長十二年(1607)三月、藩主松平忠吉の病没を悼んで一旦隠居した。
 同年四月二十六日に家康九男、徳川義直が清洲城主となり、政常は百石余の高禄を得て実子の二代とともに義直公に仕えた。同十四年(1609)実子の二代政常が早世したため美濃国より大道の子を養子(三代美濃守政常)として迎え、自らは『相模守藤原政常入道』として復帰している。
 同十五年二月に名古屋城開府に伴って、名古屋城下富田町(現在の名古屋市中区桜通本町角)に移り鍛刀に従事。元和五年(1619)二月二十八日没、享年八十五。作刀年紀は天正二十年、慶長元年、二、三、六、九、十一年の裏銘がある。
 政常の作域中、刀は稀有で槍・薙刀・小刀は新刀中の雄で無双の名人として知られ、短刀や小脇指は格式があり最上作に列位されている。
 本作のような物打ちが豊かに張った勇壮な姿に志津を念頭とした焼刃は、尾張国の為政者や勇猛果敢な武将達の婆娑羅の機運と嗜好にもっとも合致した桃山時代の作域を明示して刃抜けの秀逸さを念頭に棟に向かい肉を削いだ造り込みは迫力がある。入道後の慶長十四年~元和五年(1609~19)の作刀であり、地刃ともに健全に迫力ある出来映えをしている。
金着せはばき、白鞘入
(注1)政常の菩提寺・西光院の過去帳より
(注2)天正十九年(1591)関白豊臣秀次が清洲城主に就任し、秀次公の斡旋により、天正二十年(1592)五月十一日、信高が『伯耆守』、氏房は『飛騨守』、政常は『相模守』を受領している。
(注3)一説には秀吉の子飼いであった福島正則に召されて『政』字を賜ったと云う説をとっている。福島正則の清洲入城は文禄四年(1595)であり、改銘はそれより五年前に行われていることから福島正則より銘を拝領した古書説は誤りであると思われる。
参考文献:
『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和五十九年三月三十一日