N16336(S8908)

刀 銘 肥前住播摩大掾藤原忠国 附)黒漆刷毛目塗十字紋散蒔絵鞘半太刀拵

新刀 江戸時代初期(寛永末年頃/1640~) 肥前
刃長71.1cm 反り1.7cm 元幅28.6mm 元重7.2mm 先幅18.1mm

 特別保存刀剣鑑定書

附)黒漆刷毛目塗十字紋散蒔絵鞘半太刀拵

 

 

剣形:鎬造り、庵の棟低めに、元身頃合いにつく。中頃より腰元にやや深めの反りがつき物打ちにも反りがあり中峰に結ぶ。均整のとれた優美な姿をしている。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌に杢目交え、地鉄は鉄色冴えて潤いながらも総体に肌目立ち、地沸が厚く付いて板目・杢目の肌模様に沿って太い地景が表出している。
刃紋:はばき元でごく短く焼だして、背の高い足長丁子に重花丁子を焼く。乱れの谷には小沸が厚く積もり所謂『虻の目』となる。刃中匂い深く、それに比して丁子の焼頭はやや匂口が締まりごころとなる。刃中には太い沸足がのびて、金線・砂流し・稲妻が頻りと掛かり頗る明るく冴えて賑やかであり沸の豊かな働きがある。
中心:茎生ぶ、茎にはセンスキ状に角度の強い大筋違の鑢目がある。入山形(頂は平)の茎尻、棟肉平。太刀銘で『肥前住播摩大掾藤原忠国』の長銘がある。
帽子:横手で鎮まり直調に強く掃きかけて中丸となる。
 初代忠吉、橋本新左衛門の異母弟である広貞、橋本相右衛門尉の次男である忠国は名を橋本六郎左衛門といい、慶長九年(1604)に生まれた。初銘を『広則』と名乗り、初代忠吉が歿した寛永九年(1632)は六郎左衛門が二十九歳の時であった。従兄弟にあたる初代『正広』より三歳、嫡系の『二代忠広』より十歳年上である。父の広貞、長兄の国広とともに祖父・初代忠吉(忠広)の門人であり、師の最晩年は協力者の一人であったと目されている。播磨大掾を受領し、『忠国』に改めたのは寛永十一年(1634)で三十一歳のときであった。播摩の銘字に注目すると、「磨」の字が「摩」と刻された作品は受領後の寛永十一年~寛永末年(1634-43)頃の作品である。
 初代忠国は正保の初めごろに佐賀藩、鍋島家の支藩である小城・鍋島家の初代藩主、紀伊守元茂に請われて同家のお抱え工となり、この頃から「播摩大掾」の「摩」の下「石」の字を「手」から「石」に変えるなど銘の運びを大きく変えている。後年は『播磨守』に転任しており、現存する「播磨守藤原忠国」銘の分類から、寛文年間以降の後年は実子の『治国』・後の二代忠国の代銘と目される資料が現存している。初代は「肥」の旁「巴」に点を一つとし、順鏨を用い、横線は左右にあたり鏨と抜き鏨(つけとめ)を付けた「播摩大掾」時代と同じ鏨遣いで、「住」の旁の第一画を上からの鏨、同じく「守」の第一画も同じ鏨である。これに対して、二代目となる治国の銘は「肥」の「巴」に点を二個入れて、横棒を逆鏨でつけとめがない。さらには「住」の旁の第一画と「守」の第一画は下から左上に打ち上げているのが二代の播磨守忠国である。延宝四年末から翌五年(1676-77)頃に隠居して嫡子治国に播磨守の官位と忠国の家督を譲り、以降の晩年期は『播磨入道休鉄』と号した二代との合作がある。元禄四年四月二十二日(1691)歿、享年八十八歳であった。
 本作はその銘振りから初代忠国の初期作(寛永末期/1640頃)、初代忠国の三十代後半頃の作であろう。この頃、初代忠国の茎鑢はセンスキに近い急角度の大筋違で、茎尻の入山形が急角度、かつ茎尻入山の頂を平に仕立てていることが特徴である。正広や行広の茎仕立とは意図的に差別化を図っていることは興味深い。さらには宗家の忠吉(忠広)の茎には切鑢を掛け、打刀の茎棟には小肉をつけているのが常ではあるが、傍系の正広・忠国らは茎鑢を大筋違に仕立てて、茎棟は平であることが特徴である。
 同時代の肥前傍系に属する正広の作と比較すると、反りが一段とふかく、先反り気味があり、身幅は頃合いで優美な太刀姿を彷彿させる。地鉄は強く、やや肌立ち(板目・杢目状の模様がはっきりと目立ち)、地沸が厚くついて鉄色冴え、肌目に沿った地景がうねる美観を呈している。肥前物中ではもっとも沸主調と評される丁子乱れは広狭があり、丁子の数も多く、大房丁子や重花丁子を交えて金線、稲妻、砂流しや『虻の目』と称する沸が丁子刃の中に浮かぶなど豊かな沸の働きがあり、同時代の傍系肥前刀中、丁子乱刃もっとも華麗で姿のよい作品であり、忠国の本領が遺憾なく発揮された優品である。

附)黒漆刷毛目塗十字紋散蒔絵鞘半太刀拵 拵全体写真各部拡大写真
  • 総金具雲文(兜金・縁・口金・足金物・責金物・石突金物)銀地 鋤下彫 無銘
  • 目貫 四方手轡馬具図 赤銅容彫 金銀色絵
  • 鐔 雲文 銀地 皺革地 鋤下彫 無銘
  • 鞘 黒漆波文刷毛目塗金切金 丸に十字紋散 弓矢図蒔絵
  • 柄 白鮫着 金茶色常組糸撮巻
金着はばき、白鞘付属(佐藤寒山氏鞘書
参考文献:
横山学『肥前刀備忘録』平成十八年
『刀剣美術 第665号』公益財団法人日本美術刀剣保存協会 平成二十四年
片岡銀作『肥前刀思考』昭和四十九年
※初版の『新刀辞典』によれば、三代忠国を挙げて、「三代は播磨大掾の磨の字の下を手と切る」との記載があり、『古今鍛冶備考』にも同様の記載がある。本刀の鞘書に寒山貫一氏も”時代「元禄頃」”と添書している。昭和50年頃までは忠国の代別の分類には諸説あり、忠国三代説が主流であったことを示す好資料である。寛永十三年紀のある初代忠国の脇指
(佐賀県立博物館蔵)は播摩大掾の「磨」の字が「摩」と刻されていることから、本作は初代の寛永末年頃の作品であることがわかる。