E15229(S834)

刀 銘 兼光

古刀 室町時代末期 (永正頃/1504~) 美濃
刃長 78.2cm 反り 3.5cm 元幅 31.2mm 先幅 18.4mm 元重 7.5mm

保存刀剣鑑定書
『美濃刀工銘鑑』所載品

 

 

 

剣形:鎬造り、庵棟。寸延びて、元の踏ん張りがつき、腰反り・先反り共に深くついて中峰に結ぶ太刀姿。鎬筋の重ねが高く、鎬地の肉を削いだ強靭な造り込み。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌、処々に大肌を交えて総体肌立ちごころ鎬地は柾目顕著。湯走状に白けごころの関映りが明瞭に、太い地景が躍動する。
刃紋:小沸出来の互の目・丁子刃・尖り刃を交えてく高低広狭賑やかに飛び焼き・湯走り・棟焼きがあり明るく冴える。刃中は匂立ち込めて澄む。乱れの谷には沸足が刃先に向かい射し込め、葉浮かぶ。
帽子:乱れ込んで掃きかけて小丸に返る、所詮地蔵帽子となる。
茎:生ぶ。目釘穴一個、茎尻は刃上がり浅い栗尻。平地を檜垣鑢とした鷹の羽鑢。棟小肉ついて大筋違の鑢目がある。

 美濃伝は「五箇伝」の後発として、美濃を中心として興隆した流派。鎌倉時代末期から南北朝期(1333~92)にかけて、『志津三郎兼氏』が大和国から多芸郡志津(養老郡南濃町志津)へ、同時期に『金重』が越前国から関へと移住して来た。さらに越前から『国長・国行・為継』らが赤坂(大垣市赤坂町)へと移住するなど諸国から移住し、美濃国の刀鍛冶は隆盛期を迎えるようになる。
 『日本刀銘鑑』によると永和(1375~78)の頃、大和国からは『兼光』(右衛門尉・金行の娘婿、手掻『包永』の三男で初銘『包光』)が、一門鍛冶の『兼明・兼弘』らを伴って関の地に移住、『関鍛冶の祖鍛冶』※といわれている。
 乱世の時代に関の地に移住した大和鍛冶らは本格的に活動をはじめ、『兼光』を祖とする関の刀鍛冶らは鍛冶仲間の自治組織である「鍛冶座」を結成し、刀祖神を奈良の春日大社から、関の春日神社(南春日町)に分祀し、同社を関刀鍛冶の本拠地として活動し最盛期を迎えている。「関七流」と呼称される善定派(兼吉)・室屋派(兼在)・良賢派(兼行)・奈良派(兼常)・得永派(兼弘)・三阿弥派(兼則)・得印派(兼安)の七派を形成して互いに技を競った。
 『室町期美濃刀工の研究』によると、室町期のもっとも古い年紀作は『兼光 応永元年八月日』の短刀がある。南北朝期に関の地に移住した『兼光』は鍛冶座を創始した関鍛冶の金字塔である。以降、善定派に属して室町時代を通じて数代続いたようである。
 表題の『兼光』は文明から永正(1469~1520)頃を大凡の活躍期とされ、善定『兼吉』孫・『兼信』子・清次郎・法名良敬という。同工は関鍛冶の尾張移動の早期例として知られ、永正頃(1504~)に美濃関から尾張津島(愛知県津島市兼平町)に移住したとつたえられる。
弐尺五寸八分と寸延びて、腰反り深く、先反りがついた生ぶの原姿を今に遺した貴重な一口で、 馬上戦に備えた長寸の太刀は鎬筋を高く張らせた強靭な造り込みに鎬地を削いで刃の通り抜けの良さと重量の軽減を両立させた構造。打ち合いに備えての棟焼きがあるなど強靱な焼刃の構成は実利を重視したもので凄味がある。
平地を檜垣鑢とした鷹の羽鑢が施された茎は元姿を留めて錆色良好に、二字『兼光』の特徴的な銘が鏨深く刻されている。戦国時代を駆け抜けた野趣に富んだ凄味のある太刀で、『美濃刀工銘鑑』193頁の所載品である。室町期美濃刀の特徴を明示する同工の代表作といえよう。
金着二重はばき、白鞘入
※関鍛冶は『金重』・『兼光』・『兼永』達を祖鍛冶とし、元祖を鎌倉末期、永徳頃(1381)の『元重』を元祖としている
参考資料:
杉浦良幸『美濃刀工銘鑑』里文出版 2008
鈴木卓夫・杉浦良幸『室町期美濃刀工の研究』里文出版 2006
本間薫山・石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣 1975