M18844(S1994)

刀 銘 飛騨守藤原氏(房)

新刀 江戸時代初期(慶長頃/約400年前) 尾張
刃長 69.7cm 反り 1.5cm 元幅 31.8mm 先幅 25.8mm 鎬重 7.6mm 元重 6.5mm

保存刀剣鑑定書

 

剣形:鎬造り、庵棟。鎬を張らせて棟に向かう肉を削いだ堅強な構造とし、少々磨上げながらも、身幅広く元先の幅差さまで開かずにものうち付近を大きく張らせて大峰に結ぶ豪壮で威風堂々とした姿。(刀身拡大写真
鍛肌:小板目肌がよく詰んで、地錵つき地景が湧き出して強靭な肌合いをしている。
刃紋:錵本位の湾れ刃に互の目、矢筈刃、尖り刃を交える。匂い深く粗めの錵が付き、一部は地に溢れて荒錵状態となり、横手下方は、湯走りごころの二重刃や釣針状の跳び焼きを交え、処々棟焼きがある。 刃中は匂い深く、太い錵足が入り、葉が浮かんで錵匂いの闊達な働きがある。
帽子:鋩子の焼刃高く且つ強く、乱れ込み、先火炎風に尖り返りを深く焼いている。
中心:二寸ほどの磨上げ。刃上がり茎尻。元鑢目は大筋違。茎孔四個。佩表の第二目釘孔下に大振りの力強い鏨で『飛騨守藤原氏』の銘がある。
 飛騨守氏房は若狭守氏房の子。永禄十年(1567)、美濃国関に生れ、幼名を河村伊勢千代と称した。のちに平十郎と改める。父である若狭守氏房が尾張国清洲の城主、織田信長に仕えて抱鍛冶となり、天正五年(1577)、信長に従い近江国安土城下で駐鎚したのに伴い、信長の三男織田信孝の小姓として出仕し、父と共に織田信長に仕えた。同十年(1582)六月二十一日、本能寺の変で信長自害の後、同十二年(1584)尾張国清洲城下で蟹江城主、佐久間正勝の扶持(父若狭守三十貫文・伊勢千代百貫文)を受け、同十六年(1588)から清洲城下で父若狭守氏房について鍛刀を始めている。同十八年(1590)五月十一日、父の没後は一門の同姓の叔父、初代信高に師事して鍛刀を学んだ。同二十(1592)年五月十一日、二十六歳で関白秀次の斡旋により飛騨守を受領し、その直前に氏房を襲名している。
 慶長十五年(1610)名古屋城築城とともに同十六年(1611)清洲から名古屋鍛冶町(現在の中区丸の内三丁目あたり)に移住し、寛永八年(1631)正月、家督を嫡子『備前守氏房』に譲り隠居。同年十月二十七日没。享年六十五。名古屋大須門前町の東蓮寺(現在は昭和区八事に移転)に睡る、法名『前飛州大守無参善功居士』。
 銘は刀や脇指の場合、目釘孔(第二目釘孔)の下から銘を切り始めるものが多く、本作の如くのびのびとした見事な鏨使いである。藤原氏房の『原』の四画目が二画目に突きだしたもの(本作)は壮年期の作に多く見られるとも云われている。
 江戸時代初期にまま見受けられる大鋒で身幅の広い豪壮な姿は、慶長新刀の特徴を明示し、飛騨守氏房の高度な技量と婆娑羅の機運を窺い知ることができる。
金着せはばき、白鞘入(佐藤寒山先生鞘書き 『同作中傑出也珍重』)