S16637(W8083)

脇差 銘 伯耆守藤原信高

新刀 江戸時代前期(寛永十年~寛文二年頃/1633-62) 尾張
刃長53.9cm 反り1.1cm 元幅32.4mm 先幅23.1mm 元重7.2mm

保存刀剣鑑定書

 

剣形:鎬造り、庵棟。刃および棟区は共に深い。身幅が広く元先の幅差はさまにつかず、重ねが厚い。反りはやや浅めについて中峰に結ぶ豪壮な姿をしている。(刀身拡大写真
鍛肌:小板目肌つんで清涼な鉄色をしており地錵が付いて地景入る。
刃文:直ぐ調に焼きだし、小錵出来の湾れ刃はおおらかにうねり、互の目・矢筈・箱刃を配した自由闊達な刃文をして僅かに棟焼がある。表裏の刃文はよく揃い、刃縁にはやや粗めの錵が積もり、一部は地に溢れて湯走り状となる。刃中は柔らかな匂いを敷いて、互の目の錵足が入り、葉が浮かぶなど錵匂の働き豊か。
帽子:帽子の焼き強く、湯走り状に二重刃を呈して僅かに湾れる。先中丸に深く返る。
茎:生ぶ。鑢目大筋違い。目釘孔壱個。茎尻は刃上り栗形張る。棟肉ついて大筋違いの鑢目がある。佩表棟寄りに七字銘『伯耆守藤原信高』の長銘がある。
 尾張新刀の雄、二代信高の作刀。伯耆守信高二代は、初代慶遊信高の嫡子として慶長八年、尾州清洲関鍛冶町に生まれた。河村伯耆という。同十五年名古屋城築城にともない名古屋関鍛冶町(現、名古屋市中区丸の内三丁目)に移住。寛永十年八月二十九日、三十一歳で伯耆守を受領した。尾張国初代藩主徳川義直の御用鍛冶に命じられ百石を受けている。寛文二年、六十歳で隠居「閑遊入道」と号した。隠居後は『伯耆守信高』のほか『前伯州信高入道』、『前伯州閑遊入道』、『前伯州山月信高入道』などと銘を切る。元禄二年九月二十七日没、享年八十七。
 三代信高、河村三之丞は寛永九年に生まれ、初銘を「信照」。寛文五年三月五日、三十四歳のときに伯耆守を受領して三代信高を襲名した。同年五月に尾張二代藩主徳川光友の命により尾張徳川家のお抱え鍛冶に任じられ扶持十人分を受けた。宝永四年八月二十日没、享年七十六。
 寛永から延宝年間は刀剣の需要が多く、特に武芸の盛んな尾張国では頑丈な造形のものが求められ。同藩の剣術指南役である柳生連也厳包の佩刀を鍛えた信高の作刀は質実剛健を旨としながらもその豪壮な作りこみと大業物としての名声を世に知らしめた。河村三之丞・信高三代は父である閑遊入道信高と協力して鍛刀に励んでいる。歴代信高中、二代・三代合作の刀がもっとも出来が優れているといわれている。伯耆守の任官は三代目までであった。
 伯耆守藤原信高の銘文については二代・三代の銘振り・茎仕立てが近似していることから代別が困難ではあるものの、詳細に観ると三代信高銘の特徴として、『守』の第三画は中央に向って角度付き鏨を運ぶこと、さらには『藤』の第三画は『月』の肩に向って長く斜めに切る、『信』の最終画はやや右下方に鏨を跳ねるなどの特徴が看取される。
 この脇指は身幅が広く、物打が張り中峰に結ぶ威風堂々たる体躯を保持し、尾張武士委の大業物の貫禄を湛える。茎の鑢目、銘字の鏨運が鮮明に保存されて地刃ともに冴える。
山銅地時代はばき・白鞘入
参考文献・資料:
『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和59年3月31日
『刀剣美術』第357号、日本美術刀剣保存協会、昭和61年10月

脇指 銘 『三阿弥末派伯耆守信高作 平氏厳包所持之、寛文七秋一之胴奥大桃灯一刃 二津胴快裁落之入平地数寸也』 (桑名市博物館蔵)