A27608(S2070)

刀 銘 越前住播磨大掾藤原重高 以南蛮鉄作之 附)茶石目地塗鞘打刀拵

新刀 江戸時代前期 (寛文頃/1662~)越前
刃長 70.1cm 反り 1.4cm 元幅 32.3mm 先幅 20.0mm 元重 7.3mm

保存刀剣鑑定書

附)茶石目地塗鞘打刀拵

10回まで無金利分割払い(60回まで)

剣形:鎬造り、庵棟。重ね厚く身幅広く浅めの反りがつき、元先の幅差がついて中峰に結ぶ寛文頃に流布した打刀姿。表裏には丸留の棒樋の彫物がある。(刀身拡大写真
地鉄:黒味を帯びた板目肌の地鉄は総体肌立ちごころとなり地沸つく。
刃紋:沸れに互の目・丁子刃。刃縁には沸がよくついて冴え、刃中匂い深く葉浮かび、互の目や丁子の沸足が刃先に放射して様々な働きがあり見所豊か。
帽子:横手下で二重刃ごころとなり直ぐ調子となり中丸。
茎:生ぶ、目釘穴二個。刃長に比してやや短めに栗尻張る。勝手下がりの鑢目。棟肉平でここにも勝手下がりの鑢目がある。佩表の鎬地にやや小振り・縦長の書体で『越前住播磨大掾藤原重高』の長銘、裏には『以南蛮鉄作之』と鏨がある。

 新刀黎明期の越前国は徳川幕府の軍事政策上の要所として尚武の気風旺盛で刀の需要も高かった。美濃より兼種、兼法、兼則らが移住し、山城国からは大和大掾正則が来住。さらには古刀期よりの下坂派・初代康継が葵紋を賜り、また堀川派の山城守国清らが朝廷より菊花紋を許されて互いにその技を競った。
 播磨大掾藤原重高は信州飯田生まれ。美濃の関鍛冶兼則の門人となり、師と共に越前一乗谷に来住し播磨大掾を受領、業物に列位されている。。二代の重高は同国の道本兼植にも学だという。寛文年間を通じての作刀があり後年は元禄十五年までの年紀がある。以降幕政時代を通じて十一代まで続いた越前新刀の名門として知られている。
 この刀は重ねの厚い強固な造り込みをしており、江戸時代前期・寛文頃の典型的な体躯を有して健全である。玉鋼に南蛮鉄を卸した強靭な鍛刀法は江戸時代前期の武勇を尊ぶ気風が醒めやらぬ時期に流布した。

附)茶石目地塗鞘打刀拵 (拵全体写真拵各部拡大写真

  • 縁頭:雲龍図、銀地、鋤彫、無銘
  • 目貫:桜樹寿老人図、赤銅容彫、色絵
  • 鐔:氷割図、鉄地真鍮象嵌、無銘
  • 柄:白鮫着、黒色常組糸撮巻
  • 鞘:茶石目地塗、鐺 宝袋図、赤銅地色絵

銀地二重はばき、白鞘入
参考文献:本間薫山・石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年