K7633(S3274)

刀 (折返銘)濃州関住兼氏 附)黒蝋色塗鞘打刀拵

古刀 室町時代末期(天文頃/1532~54) 美濃
刃長 70.6cm 反り 2.0cm 元幅 34.0mm 先幅 30.2mm 鎬重 7.9mm

保存刀剣鑑定書

附)黒蝋色塗鞘打刀拵

 

 

剣形:鎬造り、庵棟。元来二尺九寸程の長大な体躯であったものを二尺三寸三分半の定寸法に磨上げている。銘が失われるを惜しんで折返し銘に仕立て、『濃州関住兼氏』の長銘を温存。鎬を張らせて棟寄りの肉を削いだ堅強な構造とし、元の身幅は殊の外広く、ものうち付近を大きく張らせて大峰に結ぶ豪壮で威風堂々とした姿。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌がよく錬れて杢を交え、刃側に流れる鍛肌があり地沸つく。
刃紋:のたれに小互の目足が入り、刃縁に沸がよくつき二重刃・ほつれごころのところがある。のたれの谷には沸が厚く凝り、刃中に沸よくついて、匂深く明るく冴える。
帽子:表裏ともに湾れて乱れ込み地蔵風に中丸に返る。
茎:五分半(17cm)ほどの磨上げ、折返し銘『濃州関住兼氏』がある。目釘孔二個。
 鎌倉末期から南北朝期(1333~92)にかけて、『志津三郎兼氏』が大和から多芸郡志津(養老郡南濃町志津)に、同時期に『金重』が越前国から関へ、さらには『国長・国行・為継』らが赤坂(大垣市赤坂町)の地に来住。さらには大和から『兼光』が関に来住して美濃は刀剣の黎明期を迎えることになる。
 室町時代後半になると、足利幕府の弱体化に伴う応任の乱(1467~77)に端を発する戦国時代を迎え、利器としての日本刀の需要が急速に高まった。関の刀鍛冶らは自治組織としての『鍛冶座』を組織して刀祖神を奈良の春日大社から関の春日神社に分祀し、関刀鍛冶の本拠地として奉り崇めた。
 『関七流』と呼ばれる三阿弥派(兼則)・善定派(兼吉)・良賢派(兼行)・奈良派(兼常)・室屋派(兼在)・得永派(兼弘)・得印派(兼安)を形成して統率し、豪族・戦国大名より受注を一手に受けて繁栄し全盛期を迎えることになる。
 室町時代の後期になると、美濃国関は備前長船と双璧の規模となり刀剣の一大生産地となった。慶長五年(1600)の関ヶ原合戦で徳川家康が勝利し江戸幕府泰平の世になると利器としての刀剣の需要が減少。多くの美濃鍛冶達は有力大名の城下町へと四散して新刀期の刀剣生産を担っていくことになる。
 兼氏は銘鑑によると、南北朝期志津の地に於いて包氏(兼氏と改銘)を祖とし、直江に移住した室町時代初期・応永ごろの兼氏を三代としている。後代は直江より赤坂に移住した明応頃の兼氏を経て以降、同派は関の地に来住して『室屋派』に属したようである。
 『濃州関住兼氏』と鏨を運ぶ兼氏が室町末期に数代にわたりみられ、以降の新刀期の兼氏を名乗る鍛冶は本国美濃赤坂の他、尾張・犬山城下などで作刀した。
 表題の刀は天文頃(1532~54)の兼氏の作品である。関住兼氏は志津三郎兼氏の流れを汲む流派として知られ、斬れ味に優れた美濃刀の優秀性に相州伝を加味した迫力のある作風を専らとしている。
 本作は身幅殊の外広く、反りが浅くついて元先の身幅開かず、ふくらがたっぷりと張って大切先に結ぶ。鎬が殊に高く平肉をつき打ち合いに耐える構造とする一方、棟に向かって肉を削ぎ重量を調整し裁断に適した造り込みは用の美と尚武の気風を明示している。 地鉄は良質の卸鋼が用いられて板目肌に杢目肌を交え地沸つき、良質の小沸がよくついた刃縁は冴え冴えとして明るく業物としての貫禄充分。
 戦国時代の武勲ある武士の伝来品であろう、二尺三寸三分半の定寸に磨上げるに当たって銘の欠損を惜しみ折返銘とし、刀身は研数少なく、身幅十二分に平肉がついて大峰に結ぶ健全な体躯をたたえる。打刀拵に装着すると頗る安定があり手持感が優れる出来の良い刀である。

附)黒蝋色塗鞘打刀拵拵全体写真刀装具写真

  • 縁頭 勝虫図 赤銅地 石目地 高彫 色絵 無銘
  • 鐔 牡丹獅子図 鉄地肉彫地透 金象眼 金覆輪 埋忠作と銘あり
  • 目貫 雨龍図 容彫 金色絵
  • 柄 白鮫着せ 金茶色常組糸撮菱巻

拵は時代のままで柄糸が解れているが、柄下地は堅強で緩みなく、大振りな勝虫図の縁頭、雨竜図の目貫とも調和している。
雲龍図 時代はばき 山銅地、片切彫、白鞘付属
※室町時代の美濃には関鍛冶ばかりでなく、『末関鍛冶』と呼ばれる鍛冶達が、蜂屋(美濃加茂市)・坂倉(坂祝町)・赤坂、清水(大垣市)などの地で作刀している。
参考物件:
本間薫山・石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年
鈴木卓夫・杉浦良幸『室町期 美濃刀工の研究』里分出版、平成十八年