Y34988(S2071)

刀 銘 美濃国御勝山麓住藤原永貞 元治元年八月於江府作 同号丑正月於千手太々土壇拂切手山田源蔵吉豊

新々刀 江戸時代末期(元治元年/1864) 美濃/武州
刃長 75.6cm 反り 1.2cm 元幅 34.9mm 先幅 25.8mm 元重 8.4mm

特別保存刀剣鑑定書

佐藤寒山先生鞘書

 

 

剣形:鎬造り、三ツ棟。寸延びて身幅広く重ね厚く、元先の幅差がさまで目立たず、反り浅くつき中峰延びる。豪壮で威風堂々とした体躯をしている。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌が流れごころとなり、地沸がついて地景が顕れる。
刃紋:のたれに互の目足が入り、沸がよくつき、粗めの沸を交え、葉入り、匂深く砂流しかかり、沸筋・金筋入り匂い口明るい。
帽子:表裏ともに湾れて直ぐ調に掃きかけて小丸に返る。
茎:生ぶ。やや長めの茎、刃上がり栗尻。鑢目は大筋違に化粧つく。棟小肉つき、ここにも大筋違に化粧の鑢目がある。目釘孔二個。指表の目釘孔下方、鎬地上に『美濃国御勝山麓住藤原永貞』の長銘、裏の目釘孔下方平地には『元治元年八月於江府作』の年紀と駐槌地、鎬地には『同号丑正月於千手太々土壇拂切手山田源蔵吉豊』の裁断銘がある。

 永貞は本名を松井治一郎といい、文化六年(1809)、美濃国不破郡(現在の岐阜県不破郡垂井町表佐一色四番町屋敷)に寺侍・松井直三郎の子として生まれた。幕末動乱期は彼を刀鍛冶の志へと掻き立て、赤坂千手院道永に学んだのちに独学で鍛刀を研究して独自の作域へと昇華させた。江戸時代末期の美濃国刀工中、随一の名人と称せられた美濃国金重後裔を称する優工である。
 紀州徳川家の御用を勤めて松江、山城などでも鍛刀し、万延元年頃(1860)には伊勢田丸にて駐槌、文久二年頃(1862)から慶應頃(~1867)までは江戸青山の紀州家の老臣・久野丹波守の下屋敷で作刀している。明治維新後は郷里の垂井町表佐の生地、御勝山麓に帰り、明治二年(1869)六月二十二日歿、享年六十一。
 裁断銘にある切手、山田吉豊は天保十年(1839)五月十五日生まれ、通称を『源蔵』。安政頃の初銘を『吉次』、文久頃には『吉豊』と改銘している。八代目を家督相続し『浅右衛門』と称した。明治十五年(1882)八月十三日歿、享年四十四。
 御勝山永貞の作刀は現存するものが少なく、作風には清麿一派に近似するところがある。新々刀の典型的な姿を呈し寸が延びて身幅が広く、反りが浅く付いて中峰の延びた豪壮な体躯を魅せており、とりわけ表題の刀のように三ツ棟に造り込む処に同工の特徴が明示されている。
 この刀は元治元年(1864)、御勝山永貞五十五歳の円熟期、江戸青山においての作刀。時に斬り手の山田浅右衛門吉豊は二十五歳の壮年であった。幕末動乱期の世相を反映し、注文主は日本刀の機能美、精神性や象徴主義にとどまらず、武器としての抜群の斬れ味にも心酔するところとなり、山田浅右衛門吉豊を通じて御勝山永貞に作刀依頼をしたのであろう。もっとも難易度の高い部位『太々』を試し、抜群の斬れ味を実証した『於千手太々土壇拂』の裁断銘は、高橋長信、泰龍齋宗寛、清人らの作刀にも同斬り手による裁断銘がみられる。
金着二重はばき、白鞘入(佐藤寒山先生鞘書
参考資料:
本間順治・佐藤貫一『日本刀大鑑・新刀篇二』大塚工藝社、昭和四十一年
福永酔剣『首斬り浅右衛門刀剣押形』雄山閣、昭和四十五年