A68549(S2179)

刀 銘 肥前住武蔵守藤原正永

江戸時代前期(寛文元年~四年/1661-65) 肥前
刃長 72.0cm 反り 1.5cm 元幅 32.2mm 先幅 22.0mm 元重 7.2mm

特別保存刀剣鑑定書

剣形:鎬造り、庵棟。寸延びて身幅広く、重ねやや厚く元先に幅差が頃合いについて中峰が延びごころ。やや腰元で浅めの反りがついた豪壮で威風堂々とした姿をしている。(刀身拡大写真
鍛肌:小杢目肌総体によくつんだ美麗な地鉄に地沸が微塵に厚くついて処々に地景を伴う板目が顕れ、小杢目の地景が深淵より湧き出して躍動的な梨子地の肌目は見事。
刃紋:ごく短く焼きだして浅く湾れ、互の目に箱刃、丁子刃が鎬筋に迫るほど焼刃高く変化に富んだ濤瀾風の刃文。処々に煌めく星・三ヶ月や水玉状の跳び焼きがあり、上部には群れをなす雁がねの如く跳び焼きが列なる。刃縁には沸が厚くついて刃中匂い深く、沸足太く入り、乱れの谷には沸さらに厚く積もりここに金線・砂流し頻りとかかり、頗る明るく冴えて華やか。
帽子:表裏ともに焼き高く、直ぐ調に中丸に返る。
茎:生ぶ。やや長めの茎で、剣形の茎尻。鑢目は勝手下がり。棟肉平でここにも勝手下がりの鑢目がある。目釘孔一個。佩裏の棟寄りに大い鏨運びで長銘『肥前住武蔵守藤原正永』が力強く刻されている。
 新刀期の肥前は武州江戸、摂津大坂と列んで藩政時代をつうじて名工を輩出した。鍋島藩の推奨政策により、肥前刀はその一際高い美術価値から鍋島焼と共に藩の贈答目録の上位に位置し、将軍家からも注文があり、国主への献上品や全国の諸大名からも寵愛を受けて珍重されてきた。肥前刀工は、橋本宗家においては忠吉・忠廣の名跡を後代に至るまで伝承し、また吉信実子の分家、正廣家・行廣家は沸本位の大乱れを焼いて鍋島家の寵愛ことのほか厚く、幕政時代を通じておおいに繁盛した。
 正廣は吉信の子で通称を『左伝次郎』といい、初・二代は初銘を『正永』と名乗っている。三代は早世のため終生『正永』を名乗ったようである(注)。初代正廣は宗家の近江大掾忠廣を助けて山城伝の直刃を焼いてその代作に従事し、自作銘の作刀は相州伝の大乱れや足長丁子乱れを得意とした。
 標題の作者、二代正廣は寛永四年(1627)、初代正廣の子として生まれ、幼名を『弥七郎』という。同十八年(1641)元服の際、父の通称『左伝次郎』を襲名した。はじめ『正永』と銘を切り、『肥州佐賀住藤原正永』などと鏨をはこぶ。万治三年(1660)、三十四歳で『武蔵大掾』を任官、翌寛文元年(1661)に『武蔵守』に転じて、この刀のように『肥前住武蔵守藤原正永』と鏨をはこんだ。
 寛文五年(1665)二月五日に初代正廣が若干五十九歳で急逝すると、慣例に倣わず河内大掾を経ることなく、同五年(1665)四月十三日、『河内守』を任官すると同時に『正廣』に改銘し正廣家二代を継承した上作鍛冶である。以降三十五年間は『肥前国河内守藤原正廣』などと刻している。六年間に三度も任官する異例の刀工で、才気がみなぎる作品を遺し、『新刀弁疑』に「富士山・星・雁ヲヤキ入タリ」とあるように変化に富んだ相州伝法の刃文が歓迎され鍋島藩主からおおいに寵愛された。元禄十三年(1700)八月六日歿、享年七十三。
 表題の作刀は寛文元年~四年(1661~1665)頃。二代正廣三十代後半の比類なき焼刃の才気が漲る優刀。 弐尺参寸七分半と寸延びて身幅広く、浅目の反りがついた豪壮な姿は寛文頃に流布した打刀姿の典型であり、力感がおおいに漲る。地鉄は小杢目肌つまり、地沸微塵に厚くついて地景細やかに入った精緻な鍛えに、刃文は鎬筋に迫るほどの濤瀾風の互の目乱れの焼刃高く華やかに大乱れ、刃中匂い深く、足・葉よく入り、小沸頗る厚く凝り、ここに砂流し・金線が頻りと掃けている。平地には煌めく星や波濤を飛ぶ雁金のごとく跳び焼きがあり前代未見の焼刃をして同作中の傑出した正廣の白眉。
金着一重はばき、白鞘入り
注)肥前正廣家三代『備中大掾正永』は、二代河内守正廣の長男として生まれた。寛文五年(1665)四月十三日、父二代正廣の『河内守』任官時にともに上洛して父と同時に『備中大掾』を受領している。父・二代正廣歿後まもなく宝永元年(1704)、六十歳で歿した為か、生涯『正廣』を名乗ることなく生涯にわたり『正永』と称した。
参考資料:片岡銀作『肥前刀思考』昭和四十九年