N18254(W6603)

脇指 銘 清人作 水似棹 附)黒蝋色腰刻五月雨鞘殿中鐺小さ刀拵

新々刀 江戸時代後期 (安政四年頃/1857~) 武州
刃長37.0cm 反り0.3cm 元幅29.3mm 元重7.0mm

特別保存刀剣鑑定書
『豊前守藤原清人』所載

附)黒蝋色腰刻五月雨鞘殿中鐺小さ刀拵
佐藤寒山氏 鞘書 『みなれ棹』

 

剣形:冠落造り、庵棟、元重ね厚く、反りが浅めについた寸延び小脇指。(刀身拡大写真
彫物:表治りし世に住みながら水なれ棹・裏「さしもわすれぬみがく心は」 教信(注2)の毛彫りがある。
鍛肌:板目肌に杢交え、処々流れて柾がかり総体肌立ちごころ。平地に沸厚くつき地景入り地鉄強く冴える。
刃紋:沸出来の小湾れに互の目乱れ・丁子刃を交え、匂い深く、小沸厚くつき丁子の足は刃先に向かって長く煙り込む。刃中には砂流し頻りに掃きかけて、金筋長くかかるなど沸の闊達な働きがある。
帽子:乱れ込み金筋、砂流し頻りと掃け、ややうつむきごころとなり小丸に返る。
茎:生ぶ、目釘孔壱個。やや大振りの茎には筋違いの鑢目、棟小肉ついて先栗尻が張る。佩表の目釘孔下方棟寄りには、太く大振りの鏨で三字銘『清人作』、裏に同じく添銘『水似棹』(みなれさお)と鏨を運び秀逸な茎仕立てをしている。
 斎藤清人は文政十年(1827)十月、仙台藩士・長野清右衛門と温泉旅館「朝日屋」の主人、斎藤小四郎の妹(事金十郎の養女)の子として、湯温海(あつみ)の温泉旅館「瀧の屋」で生まれた。故あってはじめ「瀧の屋」の事金十郎のもとで養われ、ほどなく叔父である斎藤小四郎の養子になった。幼名を斉藤小市郎という。斎藤家は先祖から刀鍛冶で代々小四郎と称し、清人は十二代目に当たると言われ、家伝によれば先祖は京都三条で朝廷の禁裏鍛冶を務めたという。
 養父・叔父の斎藤小四郎について鍛刀の技を習った小市郎・清人は、さらなる刀工修業を望んで嘉永五年(1852)、二十六才の時に出府、酒井家の江戸藩邸詰家老・加藤宅馬、松平舎人や同郷の鍔工・船田一琴らの世話で、江戸三匠のひとり、四ッ谷正宗と称された山浦清磨の門に入った。
 清人は誠実、実直な人柄で造刀技術の練磨に日夜努力し師の清麿より篤く信望を得たという。また師、清麿の後援者である窪田清音(くぼた すがね)に剣法を学んだとも伝えられる。
 しかしながら清磨の晩年は酒に明け暮れ造刀を怠り、多くの刀債を残したまま嘉永七年十一月十四日、自刀急逝。多くの門人が離散した中で、清人はただ一人四ッ谷の師宅に留まり清麿の妻子を養い、清磨の残した三十余口の刀債を完済せんと鍛刀を続けた。そのころ清麿には弟子数名あったが、刀債がその身に及ばんことを恐れてか皆師家を出て帰らず、末弟子の清人一人だけが残り、師の遺した処々一切を処理して、師恩に報いようと固い決意をしたのである。清人ひとりだけが師清麿の刀債を完済したばかりでなく報恩を完うした高潔な所業は、斯界の鑑としてその名を高からしめることになった。
 清麿歿後より安政二年十二月までは四ッ谷の師宅に留まり、安政江戸地震からの復興を経て安政三年(1856)に神田小川町に鞴を構えて自立。同四年(1857)には領主酒井左衛門尉の佩刀を制作、同五年(1858)には江戸在住のまま庄内藩より五人扶持を給された。慶応三年(1867)朝廷に献刀して紫宸殿で綸旨を賜り豊前守に任ぜられた優工として名高い。
 明治維新の変革を経て刀鍛冶を断念し温泉旅館の主人として終生を過ごしたが、「朝日屋」の直ぐ裏手に鍛冶場として本陣屋敷を構えて作刀の機会を窺っていたようである。晩年の明治三十年、孫の海軍兵学校入学を祝って最期の鍛刀として軍刀および短剣を造り、孫に贈っている。同三十四年(1901)十月三日歿、享年七十五。
 本作は冠落造りの小脇指でその銘振りから安政四年(1857)頃の作。清麿刀債の一刀であろうか、刀身には清人自身の手による『教信』の書を彫したと推せられる、表に「治りし世に住みながら水なれ棹」、裏には「さしもわすれぬみがく心は 教信」と和歌を巧みに毛彫りにしており見事である。『みなれ棹』とは水によく馴れた棹の意で、舟の操りやすさの喩えである。「時流に棹さす如何なる治世でもこころを磨くことはわすれまい」の歌意であろう。
 良質の玉鋼を以て板目に鍛えられた地鉄には地沸が微塵について鍛肌に沿った炭素量の異なる鋼が地景となって湧きだす。刃中には互の目足を跨いで長く金線がかかり、精緻な砂流しが表出している。茎仕立や鑢目も秀逸に、銘字の鏨運びは太く慎重に運び、『清』が幾分右側に寄る典型をみせて頗る出来がよい。
 安政・万延年間(1854~60)の作刀は、本作の如く、殆どが乱出来の相州伝が大半である。互の目乱れを主として、小湾れ、互の目丁子の交じる物が多い。本作のように匂い深く、小沸よくついて、足長くよく入り、細かに砂流し入り金線長くかかるなど、全般的に互の目を得意とした晩年の師清麿の作風に似てほとんど師に迫るほどのものである。この相州伝の作刀時期は、清麿の歿後師の工債(注文を受けて代価の半額を前受けしながら納品できなかった三十余りにおよぶとある)を支払うために注文主の意に沿った代作品(但し自身銘)を制作した時期でもある。

附)黒蝋色腰刻五月雨鞘殿中鐺小さ刀拵拵全体写真刀装具拡大写真
  • 縁頭:笹竹猛虎図 四分一磨地 毛彫片切彫 銘 味墨 行年七十三才
  • 鍔:竹林猛虎図 赤銅地 高肉彫 鋤彫 金色絵 銘 政随
  • 柄:白鮫着 茶漆菱巻柄 目貫 猛虎図 山銅地容彫
  • 小柄:親子獅子図 赤銅魚子地 裏哺金 無銘
  • 鐺:殿中鐺 銀地五月雨文
白鞘入り(佐藤寒山氏 鞘書 『みなれ棹』 故藤代義雄氏 旧蔵)・金着一重はばき

  1. 清人の脇指の添銘に「名人に似たる所二つあり酒呑みと銭無し」がある。これが山形県鶴岡市湯温海の熊野神社境内にある藤原清人の顕彰碑に刻まれている。碑文の最後には「これは偉大な師清磨を敬慕しわが遠く及ばざるを歎じたもので、清人の人間性の真髄をここにみる」と記し、清人をたたえている。
  2. 『教信』とは国学者の橘千蔭、斎藤昌麿関係の憂国の歌人とおもわれる。
  3. 本脇指は五十嵐善四郎『豊前守藤原清人』大塚工藝社、昭和47年所載品である。
参考文献:五十嵐善四郎『豊前守藤原清人』大塚工藝社、昭和47年