剣形:鎬造り、庵棟。重ね厚く、身幅広くやや浅めの反りがつき、元先の幅差がついて中峰に結ぶ寛文頃に広く流布した打刀姿。裏表には丸留棒樋の彫物がある。(
刀身拡大写真)
地鉄:地鉄青く、板目の鍛肌目が目立ち杢目を交え、鎬地は柾目。総体肌立ちごころとなり地沸が厚くついて地景が顕れた強靱な地鉄をして鉄色冴える。
刃紋:刃区の焼だしに小互の目を焼き、刃縁には小沸が厚くついて浅い湾れを基調に小互の目、小丁字、小乱れを交えて豊かな働きがある。中頃より上半物打ちにかけての刃縁にはさらに厚く沸が積もり叢付いて沸筋も顕著。刃中の匂いは更に深くなり刃縁には湯走りごころのほつれる焼刃を呈してさらに明るく冴えるなど相州伝を明示した豊かな働きがある。
帽子:横手下で小沸さらに厚くついて砂流し頻りに絡んで目立ち、直調子に掃きかけて中丸となり深く返る。
茎:生ぶ、目釘穴弐個。やや長めに僅かに反り、茎尻は剣形。勝手下がりの鑢目。棟肉平にここにも勝手下がりの鑢目がある。
江戸幕府お抱え鍛冶・康継は初・二代までは江戸と本国越前を隔年奉公を原則としていたが、二代目康悦康継が正保三年に歿すると、康悦の嫡子・右馬助がまだ若年十七歳であったために幕府の御用が勤まらかったことから三代目の家督をめぐる後継争いにおよんだ。さらには江戸・越前の隔年奉公の負担の是非をめぐる問題をも生じたために、三代目にして江戸家と越前家の二家に分かれてそれぞれの地に定住奉公するに至ている。
越前三代康継は初代康継の三男で、はじめ下坂四郎右衛門といい、のち市左衛門と称した。長兄の二代目康悦康継が歿すると本国越前に於いて三代目を継いで別家を設立している。四郎右衛門が越前康継家を創始したあとは、次兄の康意が甥である江戸三代康継・右馬助の後見として成人まで補佐していた。
この刀は寸のびて、身幅広く重ね厚く重量がある強靭な体躯に、頃合いの反りがつき伸びやかな中峰にむすぶ美しい剣形が印象的。地鉄は硬軟の鋼がよく錬れた板目に小杢目を交え、下半に大板目が顕れて地景が絡み肌目鮮明に総体肌立つ風を魅せ、鎬地は堅牢な造り込みを期した柾目肌を表出する。平地を微塵に覆う地沸には、これら板目肌の織りなす地景が浮かび上がり凄味がある。浅くのたれる刃文はよく沸づき、物打ち辺は焼幅さらに広くなりより沸厚く、荒い沸もついて砂流しかかって金筋入るなど闊達で覇気ある相州伝を明示している。
康継両家は将軍家の抱工として茎のはばき元に『葵紋』を賜ったが、茎に彫った紋ではなく、本作のようにはばき元に葵紋がくっきりと刻され刀身彫刻として装飾的な趣きがある。茎の状態も完存で地刃に緩みなく、同工畢生の大作である。
附)金籾殻蒔変塗鞘打刀拵 (
全身写真・
各部写真)
- 縁頭:貝尽図、赤銅魚子地同磨地小縁、高彫色絵、銘 英精(花押)
- 目貫:帆立貝図、赤銅容彫色絵
- 鍔:水車図、鉄地竪丸地透、肉彫、毛彫、銘 越前住 記内作
- 柄:白鮫着生成色細糸蛇腹組菱巻
銀地横鑢はばき二口(白鞘用・打刀拵用)、
白鞘(昭和四十七年/1972 佐藤貫一氏鞘書):
『康継於越前作之 越前三代優作之 刃長弐尺参寸三分半有之 昭和壬子年端午月吉日 寒山誌(花押)』
参考資料:本間順治・佐藤貫一『日本刀大鑑』大塚巧藝社 昭和四十一年