Y3585(W3391)

脇指 銘 筑前住源信国吉貞 附)青貝微塵散塗鞘脇指拵

新刀 江戸時代前期(寛文頃/1661~)筑前
刃長 54.4cm 反り 1.4cm 元幅 31.9mm 先幅 24.7mm 元幅 7.1mm

保存刀剣鑑定書

附)青貝微塵散塗鞘脇指拵

 

剣形:鎬造り、庵棟。重ねが厚く寸延びる。身幅が広く重厚な造り込みで元先の幅差さまに開かず先の身幅広く、中峰延びる勇壮な造り込み。(刀身拡大写真
地鉄:地鉄板目肌、地沸微塵に厚くついて地景が入り強い地鉄。
刃紋:元に焼きだしがあり、沸本位の焼刃は奔放なる太乱れ鎬筋にかかり、跳び焼きがある皆焼風の相州伝の焼刃。乱れの谷に沸が厚く積もり、匂い深く満ちて砂流しかかるなど沸の闊達な働きがある。
帽子:帽子の焼刃は直ぐに大丸となり返り深く留まる。
茎:生ぶ。鑢目は横鑢。栗尻張る。目釘孔壱個。棟小肉つきここには大筋違の鑢目がある。佩表の鎬地寄りには大振りの長銘『筑前住源信国吉貞』がある。
 信国派の十二代目、助左衛門吉貞は安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した刀工。同派は室町時代を通じて三代目から十一代目まで豊前国(大分県)宇佐郡安心院の地で作刀を続けていたが、天正十年(1582)、同地が大友宗麟に滅ぼされるに至り吉貞は蟄居浪人の身となった。
 同工は天正十五年(1587)に黒田官兵衛が豊臣秀吉より豊前六郡を与えられた折に、黒田長政の庇護のもと鍛冶場を与えられたという。文禄の役(1592)で黒田長政に従い出陣。独自の創案による袋槍を発明し柄の交換が簡単で強度のある槍を供給したことで知られる。
 慶長五年(1600)に豊前に入府した細川忠興に仕官を求められたもののこれを固辞。同七年(1602)二月、黒田長政の筑前五十二万石への国替えに随行して福岡舞鶴城下に移住、『筑前信国派』を創設した。長男の吉政、次男の吉次とともに黒田藩工となり、幕末後代まで優秀な鍛刀技術を伝えている。
 寛文頃の二代吉貞は慶長初代・助左衛門吉貞の子で吉政、吉次の弟、または助左衛門吉貞の三男・吉助の子とつたえる。名を作左衛門、後銘『重貞』を名乗った。延宝三年九月十四日歿。 筑前信国一門の作刀は黒田藩が裕福で、他藩への販売を許さず黒田家の武士だけで独占した為に作刀数比較少ない。
 隣国の肥前物が優美な太刀姿に小板目肌の鍛錬法、小沸本位の直刃や互の目を基調とする所謂山城伝を踏襲したのに対峙して、吉貞の作刀は豪快でどっしりと重く、身幅広く重ねの厚い平肉のついた切先のびた姿をしており、相州伝沸本位の板目肌鍛に大乱れを焼き、跳び焼きかかり、皆焼状となり、砂流しが多く掛かるなど覇気ある自由闊達な作柄を呈している。
 本作は表側平地中頃あたりの鎬筋横に一筋の鍛接跡①、切先裏には鍛割跡②がある。これらは相州伝の復興を試みた地景を交えるための混鉄の顕れなのであろう。刃区③と刃区の上部60mmあたり④に経年変化による僅かな朽ち込み跡がある。これらは身幅を狭めず、豊かな平肉を減ずることなく今回の上研ぎで最善消し去られており鑑賞を妨げるものではない。

 幕政時代より伝わる付帯の青貝微塵散塗鞘脇指拵は出展を機に柄糸を巻き直している。(拵全体写真拵各部拡大写真

  • 白鮫着黒色常組糸捻菱巻柄
  • 縁頭:秋草秋虫図、四分一磨地、高彫り、色絵、無銘
  • 目貫:枝菊図、赤銅容彫
  • 鐔:梅竹鯰図、鉄地、竪丸形、地透、毛彫、無銘
  • 小柄:牡丹図、赤銅魚子地、高彫、色絵 銘 辻政孝(花押)


素銅地二重はばき(下貝銀着せ、上貝磨地)、白鞘付属