O95647(W5020)

脇指 銘 義助

新刀 江戸時代初期(寛永頃/1624~) 駿河
刃長 49.4cm 反り 1.2cm 元幅 32.9mm 先幅 24.3mm 重ね7.0mm

保存刀剣鑑定書

 

剣形:鎬造り、庵棟。重ねが厚く、身幅が広い重厚な造り込み。元先の幅差さまで開かず先身幅広く、中峰延びる。腰元から茎にかけて頃合いの反りがつく。(刀身拡大写真
地鉄:地鉄よく錬れた板目肌を主調に刃寄り流れごころ。総体に肌立ち地沸厚くついて太い地景が入る。
刃紋:沸主調の焼刃は短い焼きだしがあり、腰開きの大互の目は表裏揃いごころに連なる。上半はややこずんだ互の目・箱刃・尖り刃など交え、やや粗めの沸がついて跳び焼きごころ変化に富み、刃中は砂流し・金線かかるなど沸の闊達な働きがある。
帽子:帽子の焼刃は乱れ込んで二重刃ごころに先掃きかける。
茎:生ぶ。鑢目は切り。棟小肉ついてここには勝手下がりの鑢目がある。刃上栗尻。目釘孔一個。佩表の鎬地には太鏨で『義助』の二字銘がある。
 島田派は駿河国大井川の左岸に住した一門。銘鑑によると、同派は康正(1455-57)頃の義助にはじまり、同門には助宗、広助、義綱、元助らがいる。同地は今川、武田、徳川らの群雄割拠の地であったために彼等豪族らの需めで作刀に励んでいる。初代義助は今川義忠の知遇を得て「義」の字を賜り『義助』と称したことが古書『駿遠豆鑑』に記述され、同派の頭領である義助一門は古刀期の今川義忠、氏親、氏輝、義元、氏真らに恩地を賜り子孫繁栄し、また『蜻蛉斬』、『日本号』と並んで天下三名槍と称される『御手杵』の作者としてその名を知られている。
 五代目の義助、五条清兵衛は慶長九年(1604)の大井川大洪水による水害で元島田(現、島田市本通五丁目)に鞴を移し、以降享保頃(1716~35)の九代まで続くという。
 本作は新刀期の義助で、時代は寛永頃(1624~)の六代目に相当する。名を清兵衛、法名慶関という。承応三年四月没(1654)。新刀期の島田義助の作柄は同族の助宗と比べて堅強な体躯のものが多い。本作は元先の幅差がさまで開かずに中峰延び、頃合いの反りが着いた寛永頃の豪勇な姿をしている。鍛肌は板目肌よく錬れて詰み、地沸が厚くつく。沸本位の焼刃は短い焼き出しがあり、下半の刃文は丸い大互の目が連なる。上半はより強く沸づいて、角ばる刃・尖り刃・飛び焼き状に崩れる闊達な刃文を呈してここに砂流し、金線かかり豊富な沸の働きがあり帽子は乱れ込んで掃きかけるなど末相州伝を踏襲し古刀期の刃文を彷彿させる。
 以降後代の義助の作刀は鍛肌が総体に緩く、地沸さまに目立たずに焼刃は匂本位の直刃や匂口締まった互の目を焼いて沸の働き乏しい刃文に移行しているようである。
 舟底茎は末相州物、武州下原物、駿河島田物や伊勢千子一門に共通するものであり、表裏揃いごころの刃は美濃関の和泉守兼定、兼房、尾張の若狭守氏房や伊勢の村正などにも見受けられ、伊勢、尾張、美濃、駿府、武州におよぶ美濃伝共通の鍛錬法の鍛冶圏を形成し、相互の技術交流を窺い知ることができる。
白鞘入り、金着せ二重はばき
本間薫山・石井昌国『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年
本間順治、佐藤貫一『日本刀大鑑』(古刀篇三)大塚巧藝社、昭和44年