剣形:鎬造り、庵棟。身幅広く重ね厚く浅めの反りがつき中鋒に結ぶ小脇指。(刀身拡大写真)
地鉄:鉄色青く冴え、鍛肌よく詰んで精美な板目肌をしている。鎬地は柾目肌。
刃紋:長い京焼きだしがあり、焼き刃の高い箱刃に大互の目。刃縁にはやや締まりごころの小沸がついて明るい光彩を放ち、乱れの谷には沸凝りここに砂流しかかる。
帽子:表裏ともに直調となり先中丸に上品に返る。
茎:生ぶ。勝手下がりの鑢目、棟肉平でここにも勝手下がりの鑢目がある。茎尻は剣形。目釘孔一個。佩表の目くぎ穴上方には大振りの十六葉の菊紋があり、目くぎ穴下方の鎬筋上には『伊賀守藤原金道』の銘がある。佩裏の鎬地上方には『日本鍛冶惣匠』の切付銘がある。
三品系の繁栄は志津三郎兼氏九代と称し、武田信玄に仕えた関の住人『兼道』が文禄二年(1593)に四人の子を連れて上京したのを始祖として、伊賀守金道、和泉守金道、丹波守吉道、越中守正俊らの親子は三品派と称され、埋忠明寿、堀川国広の一門と並び幕政時代を通じて栄えた一門として名高い。
伊賀守金道は兼道の長男で、文禄三年(1594)に伊賀守を受領、三品一派の家長としての重職を努めた。慶長十九年(1614)、大阪冬の陣を控えて徳川家康より「三ヶ月間で刀千振り」の制作を命じらた折りに、家康の奏上で『日本鍛冶惣匠』の称号を朝廷より賜り、以降代々『伊賀守』を受領して『日本鍛冶惣匠』と『菊紋』を刻することを許された名門である。刀匠の受領手続きの窓口に就いて、頭領としての格式と伝統を代々受け継いでいる。すなわち伊賀守金道は総ての刀鍛冶の頂点に立ち、刀工の受領における取次ぎの権限を掌握していた。受領を希望する刀工は金道に誓紙を提出し弟子になる必要があった。
表題は三代目の作、名を三品勘兵衛。貞享元年六月(1684)に伊賀守を官任し、享保十六年(1731)に四代目に家督を譲るまでの間、日本鍛冶惣匠を勤めている。享保六年(1721)に『惣』の字を『宗』に改めて『宗匠』と切り付けている。本作のように風車のごとく十六葉の菊紋を切り、五代目からは菊紋の下に『雷除』と刻するようになった。神事の宝刀や御守刀などの制作をして人気を博している。
本作は享保六年(1721)以前、改銘前の脇指である。上質の鋼は小板目微塵に詰んで鉄色冴え、剣形は常に増して身幅広く踏ん張りがある。
金着せはばき、白鞘入り