T305979(S1992)

刀 銘 泰龍齋宗寛造之 應鈴木正春需 文久二年三月日

新々刀 江戸時代末期 (文久二年/1862) 武州
刃長 71.0cm 反り 2.1cm 元幅 33.2mm 先幅 29.2mm 元重 7.8mm

保存刀剣鑑定書

刀身押型

田野辺道宏先生鞘書

剣形:鎬造り、三つ棟。重ね厚く、身幅広く元先の幅差さまで開かずやや深めの中間反りがつく。物打ち付近も身幅張り大切先に結ぶ豪壮な造り込みで頗る重量がある。刀身重量1020グラム(はばき含む)。表裏には樋先の下がった棒樋の彫り物がある。(刀身拡大写真)・(刀身押型
地鉄:総体小板目肌が微塵に詰んだ精美な鍛えに淡く乱れ映りがたつ。
刃紋:広狭ある小丁字にやや尖りごころの刃を交える。小沸よくついて丁子足がさかんに放射して地刃ともに明るく冴えている。
帽子:乱れ込んで焼き深く互の目となり先小丸に返る。
茎:生ぶ。鑢目筋違い、磨り出しには化粧鑢がある。棟肉平でここにも筋違の鑢目がある。茎尻は栗尻張る。大きめの目釘孔一個。佩表の目釘孔下、茎鎬筋上に大振りの鏨で『泰龍齋宗寛造之』の長銘、平地には『應鈴木正春需』の為銘がある。裏の鎬地寄りには『文久二年三月日』の年紀がある。
 宗寛は奧州白河の大野平蔵の子として文政初年(1818)頃に生まれた。嘉永五年(1852)頃に江戸に出府して同郷の先輩である固山宗次に師事し高弟として頭角を顕した。師の推挙により下総国の古河藩、土井氏八万石の御抱え鍛冶となり、江戸本所深川箱崎町に住して作刀に励んだ。
 初期銘は郷里の『阿武隈川』を冠して『阿武隈川畔宗寛精鍛』などと銘を切り、安政元年(1854)頃より、号『泰龍齋』を冠するようになる。同四年(1857)の八月頃より銘の字体を本作のように独特な『隷書体』に改めている。嘉永三年(1850)の作刀には伊賀乗重(注)による様斬裁断銘『両車裁断其刃ニ而頭割』のある刀がある。
 本作の文久二年(1862)は宗寛四十四歳の時の作刀。為銘の切り付けがあることから藩士、鈴木正春氏の需めによる注文打ち。通常慧眼する作刀に比して身幅が殊の外広く、重ねが厚く大切先に結んで頗る重量がある豪壮たる体躯は頗る印象的である。地刃は同工備前伝の本領作域を発揮した出色のできばえ。同工は年紀を刻するにあたり、二月・八月とかの刀鍛冶の伝統にとらわれずに制作月を刻したようである。
金着二重苔鑢はばき、白鞘入り (刀剣研究家博士、田野辺道宏氏鞘書
注)伊賀四郎左衛門乗重は寛政四年(1792)生まれ、尾張藩付家老成瀬家の臣で試し斬りの技を山田浅右衛門に、鍛刀の技を固山宗次、泰龍齋宗寛に学んだ。幕末の刀剣目利き四天王の一人に数えられている。安政四年(1857)十一月二日歿、享年六十六。
参考資料 : 刀剣美術2014.1(684号)