H113827(S3041)

刀 銘 相州住綱廣

刀 室町時代末期 (天正・文禄頃/1573~95)  相模
刃長 78.3cm 反り 2.7cm 元幅 33.5mm 元厚 8.5mm 先幅 21.7mm

特別保存刀剣鑑定書

 

剣形:鎬造、三ツ棟、身幅広く寸のびて反り高くつく。重ね厚く元先の幅差頃合いについて中鋒延びる。表には『春日大明神』、裏には『蓮台』と『梵字』の彫り物がある。(刀身拡大写真) (刀身押形
鍛肌:地鉄やや黒く沈み、大板目に大杢交じえ、処々流れる肌があらわれる。地沸つき、地景入る
刃文:沸本位の大乱れ。元の刃をやや低くし、大互の目に丁子風の刃・矢筈刃・角張る刃などを交じえて変化があり、焼高く複雑に乱れる。処々に足・葉入り、沸強くつき、一部は粗沸が溢れて、金筋・砂流し烈しくかかり、飛焼・棟焼き交えるなど所謂、皆焼状になる。
帽子:乱れ込んで先烈しく掃きかけて大丸。返り深く棟焼きに繋がる。
茎:生ぶ、たなご腹形、目釘孔二個。先浅い栗尻、切の鑢目。鎬筋上にやや詰まりごころの五字銘『相州住綱廣』とある。
 室町時代の相州鎌倉鍛冶のなかで、沸と地景、金筋を特徴とする相州伝を継承し、南北朝時代の広光・秋広に肉迫する佳作を残しているのが綱広である。山村家文書によると初代綱広は広正の子孫であり、北条氏綱の招聘により鎌倉から小田原に移住し、「綱」の一字を賜って「綱広」と改銘したと伝えられている。通説では初代を永正頃とされ、以降は天文頃の二代、さらに天正・文禄・慶長頃の三代と続き、以降新刀期には寛永頃の四代『山村勘右衛門』さらには万治・寛文頃の『伊勢大掾綱広』と続く。一説には五代の伊勢大掾綱広は中曽祢虎徹の師匠ともいわれている。以降その名跡は大正時代の十六代まで及んでいる。
 表題の作は天正・文禄頃の三代目綱広の作と鑑せられる。名を『山村宗右衛門尉』と称し、鎌倉扇ヶ谷に住した。陸奥国津軽藩主、津軽為信の招聘で慶長九年に弘前に赴き、同十一年まで駐槌して三百余刀を鍛えている。遺作には『津軽主為信相州綱広 慶長十乙巳八月吉日 三百腰之内』、『津軽主為信相州綱広呼下作之 慶長十乙巳八月吉日』などが現存している。寛永十五年二月二十七日歿、行年九十一。
 本作は殊の外寸がのびた威風堂々たる太刀姿をしている。巧緻な彫技に出色の出来映えを示し、鍛えは大肌ごころに地沸ついて迫力がある。焼刃は処々沸崩れて叢沸がつき、のたれに互の目を主体に様々な焼刃を形成し、鍛肌に呼応した金線や砂流しが烈しくかかる。同工の特徴ある『弦月形』の跳び焼きを交えて皆焼を形成している。刃方を腫らせた、所詮『たなご腹』風となる茎の形状は武州下原派、駿河の島田派、伊勢の千子派に影響を与えた。
 豪壮な太刀姿に精緻な彫技が良く映え、南北朝期の広光・秋広に見紛うまでの沸・地景・金筋が華やかな出来映えを示し、相州鍛冶、綱広の高位な技倆に感服する優品である。
金着太刀はばき、白鞘入
参考文献 : 本間順治・佐藤貫一『日本刀大鑑 古刀篇一』大塚巧藝社 昭和四十