Y4147(S1520)

刀 銘 肥前国住人吉信 附)黒蝋色漆黒墨高蒔絵鞘打刀拵

新刀 江戸時代初期 (寛永1624-1643年頃) 肥前
刃長72.45cm 反り1.4cm 元幅31.0mm 元厚6.9mm 先幅21.9mm

第三十六回重要刀剣

附)黒蝋色漆黒墨高蒔絵鞘打刀拵

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剣形:鎬造り、庵棟。身幅広く、寸延びて、重ね尋常に元先に幅差が頃合いについて中切先のびごころ。やや腰元で浅めの反りがついた力強く威風堂々とした姿をしている。(刀身拡大写真)(全身押型
鍛肌:小杢目肌よくつんだ美麗な地鉄。地沸が微塵に厚くついて小杢目状の地景が深淵より湧き出す綺麗な肌目は力強く見事である。
刃紋:互の目乱れに丁子風の刃・尖りごころの刃、矢筈乱れ、跳び焼き等交じり、焼き高く華やかに乱れ、足・葉入り、匂い深く、小沸よくつき、特に乱れの谷に一段と沸がつき凝った状態となり、互の目の頭が丸味をもって焼かれ玉状となり、近接した二つの互の目が昆虫の目玉を思い起こさせる所詮『虻の目』と称される肥前刀独特の刃を形成している。総体に烈しく砂流しかかり、金筋入り、処々跳び焼き交じり、匂い口明るく変化に富んだ焼刃をしている。
帽子:表は横手を焼き込んで浅く湾れ、裏は小さく乱れて共にやや深く返る。
茎:生ぶ。先栗尻。鑢目は切り。棟に小肉付く。目釘孔一個。佩裏の棟寄りに大い鏨運びで『肥前国住人吉信』と七字銘がある。

 肥前吉信は中島新五兵衛の三男で、名を佐伝次郎、のちに弥七兵衛と称した。慶長十六年、吉信二十四歳のときに初代忠吉長女の婿養子となり、将来二代目として忠吉家を継ぐはずであった。しかしながら慶長十九年(1614)、忠吉の妾腹として後の二代を相続した近江大掾忠広の誕生を契機に別家を樹立して独立している。その子には正広(初代)・行広(初代)の両兄弟がいる。寛永十年四月二十九日(1633)に四十六歳で歿したと伝えているが、現存するものに寛永十三年紀の作刀があり、また吉信宛の寛永十四年付の消息が存在することからも歿年は誤伝であろう。別説では寛永十五年歿・行年五十一とも伝えられている。
 義父で、師でもある初代忠吉の工房にて長期にわたり勤務し、彼の作刀期間は初代忠吉の補佐的な役割を担っていたものと推測され、吉信自身銘の違例は少ない。五字忠式の小沸本位の直刃は代作品として五字忠吉の銘をいれたか、吉信自身銘作のほとんどすべてには賑やかな肥前丁子乱の源泉をなす高低のある大乱れを焼いている。吉信-正広-行広の所謂、肥前刀鍛冶の分家は藩主鍋島家から宗家以上の寵愛を受けて明治時代まで繁栄している。
 この刀は、通常慧眼する肥前刀に比してやや浅めの反りがつき、寸が延びて中切先がのびごころとなるなど力強い造り込みをしている。所詮、慶長から寛永頃の江戸時代初頭の姿を有しており、初代忠吉の作刀に通ずるところがある。地鉄は所詮『小糠肌』と称する二代忠廣や三代忠吉にみうけられる精緻な小杢目肌とは趣が異なり、厚い地沸がより強く平地を覆い、杢目状の地景が湧き出す様は見事である。焼刃は高く華やかに乱れて足・葉が入り、匂深で小沸が厚くつき、総体に烈しく砂流しがかかり、金筋が入り、処々に跳び焼きを交えるなど豊かな沸匂の働きが観察できる。これらの匂口が頗る冴え、一層明るい沸状態を示す出来口は初期肥前刀の特色をよく表示している。さらには所詮、『傍肥前』と汎称される刀工達の先駆的な作域を明示しており、子である初代正廣や行廣の作域に通じるものがある。加えて吉信の銘振りが、初代忠廣の献上銘や、二代忠廣・初代正廣の任官前の初期銘に酷似している点が注目される。数少ない吉信作品中のなかでも出来が優れ、かつ覇気が感ぜられるものであり、彼の作域を研究する上で資料的にも貴重である。

附)黒蝋色漆黒墨高蒔絵鞘打刀拵拵全体写真各部写真萩に勝虫図墨蒔絵「表」/萩に勝虫図墨蒔絵「裏」

  • 縁頭 紗綾形文図 赤銅魚子地 金銀色絵 無銘
  • 目貫 勝虫図 赤銅容彫 金色絵
  • 鐔 陰陽三角定規小透図 鉄地撫角打返耳 金平象嵌 赤銅内覆輪 無銘
  • 鞘 黒蝋色塗萩に勝虫図墨高蒔絵
  • 柄 白鮫着せ 納戸色常組糸諸撮巻


金着せ二重はばき、白鞘入り
参考文献:『日本刀大鑑』 新刀編二 大塚工芸社 昭和41年、第三十六回重要刀剣図録より抜粋