剣形:鎬造り、庵棟。鎬筋が高く、鎬地の肉置きが棟に向かって削いだ造り込みをしている。(刀身拡大写真)
鍛肌:小板目肌よく詰んで、小杢目交え地錵が厚く付く。精緻な地景が湧いて乱れ映りが鮮明にたつ。
刃紋:浅い湾れに小の互の目、片落ち互の目、小乱れ刃を交える。刃縁は小沸が厚く積もり、互の目の頭より湯走り状態に錵が放射して乱れ映りとなる。
帽子:表は僅かに湾れて直調子となり小丸、裏は二重刃となり小丸に返る。
中心:生ぶ。茎尻は刃上がり栗尻が張る。茎孔壱個、鑢目は浅い勝手下がり、棟肉平。表の鎬地寄りに『備前国住長船法光作』、裏には『天文二年八月日』の年紀がある。
戦国時代は応仁の乱(1467-77)に始まり、京都周辺の動乱は全国に波及した。守護大名の権威が衰えると、それらの家臣や新興の國人が謀反を企てて主君を滅ぼす繰り返しを経た。岡山の戦国時代もまた下克上の連続である。守護大名赤松氏・浦上氏・三村氏・宇喜多氏らが入り乱れて戦う乱世の時代であった。同時代の刀匠は武士との結びつきが強く、庇護者でもあった。よって同時代の長船の刀剣は守護や在地の武将により保護されており、そして彼らの注文によって作刀している。とくに浦上氏と長船刀工の関係は顕著であり、戦乱に明け暮れ、明日の勝利を願い、身の安全を図った武将の好尚によくあわせて頑丈な打刀でありながらも丁子を主体とする美麗でかつ迫力のある刃文や、神仏の加護や戦国の世の平和を祈願する彫物を入れている。
天文年間は戦国の世でありながら国情は比較的平穏に過ぎ、備前では天文三年(1503)に宇喜多能家が邑久郡砥石城で高取山城将島村豊後守の襲撃で自刀したことがわずかに挙げられる程度である。
法光(のりみつ)は南北朝時代の応安(1358-)頃を初代とし、二代が應永(1394-)頃でその後室町時代を通じて同銘が九代まで続いている。法光は優秀品といえども俗名を切らなかったものらしく、稀に永正(1504-)頃に四郎左衛門尉、左衛門尉の俗名がある。
この刀は身幅広く、肉置き豊かに、鍛えは板目肌がよく詰んで、刃文は小互の目に小丁字を交え、地に煙り込む湯走り状態の乱れ映りが鮮明にたつ豊かな地刃の働きがあり、精緻かつ強固な鍛えと覇気ある焼刃は印象的である。茎鉄がよく、朽込みを生ぜず、茎仕立ても丁寧であり銘字が神妙で粗雑さが微塵も感じられず注文打の証である。名のある戦国大名の佩刀に相応しいものである。
附帯の青貝微塵散打刀拵は白鮫着燻革菱巻柄、鉄地鋤彫龍図縁頭、赤銅容彫龍図目貫、鉄地肉彫透向鯱図鐔(刀装具詳細画像・打刀拵全体画像)
「昭和刀剣名物帳」(村上孝介著・雄山閣)に登載(号:癸己法光)。
金着はばき、白鞘入り