初代政常は名を納戸佐助、後に太郎助と改めた。美濃国鍛冶八代目奈良太郎兼常の末流、八代目納戸助右衛門兼常の次男として天分五年(1534)に美濃国納土、現在の関市千年町あたりに生まれた(注1)。
永禄十年(1567)、33歳で春日郡小牧村に来住して独立、兼常と銘して天正十二年(1584)の『小牧長久手の戦い』で徳川家康の配下で槍百筋を製作して家康公より銀子を賜る。
天正二十年(1592)五月十一日に相模守を受領し(注2)、当時の尾張小牧領主、池田輝政より『政』の字を与えられ兼常を政常に改銘した(注3)。
慶長五年(1600)十一月十七日、政常66歳の時に、徳川家康の四男薩摩守松平忠吉が清洲城主になると同時に、福島正則の召に応じて小牧より清洲城下に移住、慶長八年(1603)より忠吉公の抱え鍛冶として仕えている。慶長十二年(1607)三月、藩主松平忠吉の病没を悼んで一旦隠居した。
同年四月二十六日に家康九男、徳川義直が清洲城主となり、政常は百石余の高禄を得て実子の二代とともに義直公に仕えた。同十四年(1609)実子の二代政常が早世したため美濃国より大道の子を養子(三代美濃守政常)として迎え、自らは『相模守藤原政常入道』として復帰している。
同十五年二月に名古屋城開府に伴って、名古屋城下富田町(現在の名古屋市中区桜通本町角)に移り鍛刀に従事。元和五年(1619)二月二十八日没、享年八十五。作刀年紀は天正二十年、慶長元年、二、三、六、九、十一年の裏銘がある。
政常の作域中、刀は稀有で槍・薙刀・小刀は新刀中の雄で無双の名人として知られ、短刀は品位が高く直刃の上出来は尾張新刀最上位であろう。
本作は寸延びてふくら付き、ごくわずかに先で反り、三ツ棟となる。表には護摩箸、裏には腰樋の彫物を茎に掻き流している。地鉄は小杢目肌がよく詰んで梨子地風となり地錵が厚くついて精緻な地景が沸き出でる。刃文は中直刃浅く湾れて匂締まり、刃縁くっきりとして小足がよくはいる。鋩子は小丸に返り強く深い。茎は角棟で鑢目は勝手下がり、栗尻。銘は鏨太く、「常」の字の最終画縦棒を長く引く。
附)白鞘佐藤寒山鞘書 号 『待春政常』
(注1)政常の菩提寺・西光院の過去帳より
(注2)天正十九年(1591)関白豊臣秀次が清洲城主に就任し、秀次公の斡旋により、天正二十年(1592)五月十一日、信高が『伯耆守』、氏房は『飛騨守』、政常は『相模守』を受領している。
(注3)一説には秀吉の子飼いであった福島正則に召されて『政』字を賜ったと云う説をとっている。福島正則の清洲入城は文禄四年(1595)であり、改銘はそれより五年前に行われていることから福島正則より銘を拝領した古書説は誤りであると思われる。
参考文献:
『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和五十九年三月三十一日