O13232(W5079)

脇指 銘 関住兼房作 附)黒石目地塗桐紋散合口拵

古刀 室町時代後期(永禄頃/約450年前) 美濃
刃長31.5cm 反り0.3cm 元幅29.3mm 重ね6.2mm

保存刀剣鑑定書

剣形:平造り、庵棟。身幅広く寸延びてやや先反りついた勇壮たる腰刀で物打ちのふくらが豊かに付いた健躯を保つ。表には二筋樋を掻着流し、裏は棒樋を掻き流す。(刀身拡大写真)
地鉄:板目肌流れ柾目状にせせらぎよく練れ、地鉄に柔らかみがあり肌目が潤う。地には淡く映りが発つ。
刃紋:互の目乱れに高低があり、一部には所詮「兼房乱れ」と称する背の高い、腰が括れて頭の丸い丁子刃を交えて諸処に尖り刃を交える。刃中には小沸はよく絡み、乱れの谷には沸が凝り、匂い深く、砂流しが頻りと流れる美景を呈する。
帽子:乱れ込んで地蔵風となり小丸に突き上げて返りが深く棟を焼き下げる。
茎:生ぶ。鑢目は勝手下がり。茎尻は刃上がりの栗尻形。目釘孔二個。やや小降りの「関住」、大振りの三字銘「兼房作」とある。
兼房は室町時代にあって知名度が高く、特に「兼房乱(けんぼうみだれ)」という刃文を創りだしたことで知られ、永禄から天正にかけての作品を慧眼する機会がある。一門は関に住しているものと、神戸(安八郡神戸町)、尾張や信濃に出向したものもある。美濃善定派に属し、中世末期戦国時代の打刀の添え指しとして身幅廣く、重ねも厚くかつ寸も延びた強固な平造りの脇指は雄壮な姿をしており時代の求めを反映している。さて表記の兼房は天文三年、「善斉兼房」の三男として岐阜に生まれ、京三郎と称し、後に「清左衛門」に改める。初銘は本作の「兼房」。岐阜から関に移って鍛刀し、のち「氏房」に改銘、永禄十三年四月十九日「左衛門少尉」に任ぜられ、三日後の四月二十二日には「若狭守」に転じた。織田信長のお抱え鍛冶となり、清洲、安土城下で鍛刀しており、天正十年六月信長が本能寺の変で自害の後は岐阜に里帰りし、織田信孝の扶帯で清洲城下に戻り作刀した。天正十八年五月十一日清洲にて没。享年五十七歳。附帯の黒石目地塗桐紋散合口拵は石目地にて乾漆塗を施し、鞘には五三の桐紋を散らし、合口には同じく桐紋を金蒔絵、鐺は鉄地で桐紋と唐草。柄は白鮫着せ、牛骨能面図目貫、頭は鉄地に真形文字を金布目象眼、小柄は鉄地仰月兎図(銘:則義)附帯の小刀は銘 「播磨守藤原金高」。(拵部分拡大写真)内外ともに原姿を良く留め優れた出来口を示した優品。
銀着時代庄内はばき、白鞘付属