M1557(S8873)

太刀 無銘 波平附)金梨子地立葵紋高蒔絵散糸巻太刀拵

古刀 南北朝時代 (約650年前) 薩摩
刃長74.3cm 反り1.9cm 元幅32.4mm 先幅21.1mm 元重7.4mm

保存刀剣

附)金梨子地立葵紋高蒔絵散糸巻太刀拵

剣形:鎬造り、庵の棟が低く、元の身幅広く重ねが厚く踏ん張りがあり、腰で反り、茎にも反りが付く優美で且つ豪壮なな太刀姿をしている。刀身は平地が鎬地に比して広くかつ平肉を削いだ所詮南北朝時代の肉置きをしており凛とした威風を保った原姿を保つ。
鍛肌:大板目肌が流れ、大杢目をまじえるところがあり、所謂「綾杉肌」を呈している。刃縁より白く映りが綾杉状に波打ち放たれ、暗帯部を挟んで棒状の映りが棟側よりに顕れる。
刃紋:小の沸が柔らかく刃縁に絡んで、小の互の目、小丁字を主調とした刃紋で小足が頗る好く入り、上半の物打付近はホツレる刃や二重刃、打ちのけが交じり、刃中は匂が充満し古雅溢れる。
中心:生ぶ、無銘。茎孔弐個、鑢目は浅い勝手下がり。茎尻は栗尻となる。
帽子:表裏ともに浅く湾れて焼き詰める。
本国最南端の薩摩国での刀工の始祖は平安時代「永延頃」(987~89)ごろの大和の刀工「波平正国」が当国薩摩に移住したのが始まりと伝えられる。中世の鎌倉、南北朝そして室町時代にわたり繁栄した一大流派で、代々大和伝の作風で通した。作風の特徴は大和伝を踏襲しながらも「綾杉肌」を鍛えることでも知られる。舞草鍛冶の末裔で陸中岩手の宝寿鍛冶や羽前山形の月山一門に観られる地肌が最南端の薩摩と共通する技法を備えることは中世から海路を通じて技術交流があったことも考えられる。一門の歴代刀工が襲名した「波平行安」は「波が平らで行くこと安し」と語呂合わせされ荒海を航海する水軍や商人にとっては護身用以上に頼もしい存在だった。表題の太刀は中世から長きにわたり外装の柄に収まっていた為か、茎は生ぶながらも銘のあった辺りは朽ち込んで判別できないので無銘とされている。附帯の金梨子地鞘立葵紋散糸捲太刀拵は立葵紋を金高蒔絵で散らし、総金具を赤銅地で七々子を充て、立葵紋を金色絵で施したもので近世江戸時代以降に製作されたもの。金渡金二重はばき、白鞘付属。