Tuba2884a

A pair of Open Fan Tsuba

Signed : Oite Soushu-Sakura Kunitomo NAGA'AKI-saku

Cross rectangular, Iron ground, super-fine forging surface, Kebori-style carving, Open work, Udenuki-ana punch, Round contoured Maru-mimi rim in full

74.5mm x 59.2mm 5.9mm thick (Mimi) / 5.5mm thick (Seppa-dai)

NBTHK(Hozon) certificate

 江州坂田郡国友村に鉄砲鍛冶が出自したのは天文十三年(1544)と云われている。日本人が鉄砲、火縄銃を手にするのは種子島にポルトガル人が流れついたのは天文十二年。故に翌年には日本で鉄砲の製作が始まったことになる。
 江戸中期には国友鉄砲鍛冶のなかに伊勢亀山城下、松平乗邑に随して亀山へと移住した一派がおり鉄砲師・金具師として仕え、余技として鍛鐔をしていた。これは俗に亀山鐔と呼ばれ『貞栄』『正栄』等の銘がみられる。『正栄』の門人達は『間』(はざま)と記する鐔工達の工人群となり所謂『間』鐔工として繁栄した。
 いっぽう『貞栄』の門弟『命明』は松平乗邑に仕え、松平氏の転封にしたがって亀山の地を離れて淀、佐倉、山形、西尾へと移住していった。
 この鍔は間派の工人『貞栄』の門弟『命明』の制作によるもの。享保八年(1723)に藩主の松平乗邑が淀(山城)から佐倉(下総)へと移封に随行移住した時期の作。松平家は延享三年(1746)に羽州山形へ移封になったので1723~46の時期である。

 縦長の隅木瓜形は重ね厚く切羽台にかけて僅かに中低となる肉置きは力強い。切羽台から四方隅に向かって肉置きをしだいに厚く採った良質の鋼は密に鍛えられ、豊満な丸耳には小板目状の鍛地文が看取されて漆黒の鉄色は美しい光彩を放っている。左右対称な扇形の紙文は左右に大胆に大透され、大きな腕貫孔を穿つ。

 地紙とは扇に張る紙のこと。江戸時代には夏場に地紙を売り歩く職業あったほど一般的なものだった。もともとは「扇紋」から派生した紋で末広がりな形から瑞祥的な意義により家紋となったという。三河尾張両国の出身者が主導権を把握していた当時は、鉄味良好な尾張透の手法に粋で斬新な意匠を融合して武人の好尚に応じて流行した。
江戸時代中期、享保八年~延享三年(1723~46)

 『命明』は本職鉄砲師であるがこの頃鉄砲の制作も少なくなり、金具師・鐔工として作域の広い作者で多彩な作風を観る。以降は松平氏の転封にしたがい『正命』(明和頃)、『正幸』(安永~寛政頃)、『正重』(享和~文化頃)、『重貞』(天保頃)、『重信』(安静頃)と各代三州西尾に定住するようになった。